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譬喩品(第三章) 譬喩──「慈悲」と「…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  斉藤 読者の方から、よくご質問をいただきます。
 なぜ法華経には「三千塵点劫」とか「五百塵点劫」とか、想像も及ばない長い時間を表す言葉が出てくるのでしょうかと。
 遠藤 私も同感です。たとえば寿量品の「五百塵点劫」のところでは、「五百千万億那由佗阿僧祀」という天文学的な数の「三千大千世界」を粉塵にします。そして東の方へ進み、「五百千万億那由佗阿僧祀」の国土を過ぎるごとに、その塵を一粒ずつ落としていく。(法華経四八七ページ)
 釈尊は″善男子よ、すべての塵がなくなるまで通り過ぎた世界の数は、どれほどあると思うか″と問いかけていますね。
 須田 その無数の世界を、さらに粉塵にしてできた粒のそれぞれを一劫とする。まさに長遠な時間です。これを″ゼロが何百個並ぶ″とか″十の何百乗″とか、端的に数字で示せたら、その方が、話は早いかもしれません。
 池田 それなら、法華経もずいぶん短くなるだろうね(笑い)。
 だが、考えてみよう。もし仏が「私は十の何百乗年前という昔に仏になった」と言ったとしても、弟子はそれを「はい、そうですか」と、受け身で聞くしかない。
 しかし″三千大千世界を粉々にして、一つの国土ごとに一粒ずつ落として──″と、「物語」として聞けば、弟子はその長遠さを自分でイメージし、能動的に考えることができる。
 斉藤 なるほど。法華経の多くの「譬喩」も、このイメージの力を証明していますね。
 池田 その通りです。
 ドイツの教育思想かのO・ボルノー氏は、教育の視点から、譬喩の効果を説明している。譬喩を用いて教えることは、教わる側(生徒)に、教える側(教師)が歩んだ思考の道のりを、そのままたどらせることになる。つまり、単に知識を「受け身」で聞くのではなく、″自分で考える″という「能動的な精神作用」を促すことになると(『言語と教育』森田孝訳、川島書店、参照)。
 遠藤 精神的な病を対象とした心理療法の分野でも、″自分で考える″ことを重視しています。たとえば「箱庭療法」は、治療を受ける人が、砂の入った箱に、小さな人形や家の模型などを置き、自由に″庭″をつくっていくものです。箱庭をつくることは、その人が自分で物語をつくることでもあり、それがその人の心に、自己治癒力を活性化させることにつながっていくと言うのです。
 池田 箱庭療法は、教育部の「教育相談室」でも行われているね。
 斉藤 はい。「教育相談室」は、全国に二十七カ所あります。今年(一九九五年)で開設以来二十七年になりますが、これまで、延べ二十万人以上の方が来談され、好評とうかがっています。(二〇〇五念末現在、来談者は全国三十二ヶ所で三十万人を越える)
 池田 尊いことです。悩める人々を全力で励ましてくださっている。これこそ菩薩の行動です。
 ともあれ、法華経には、心に残る譬喩や物語が、ふんだんにちりばめられている。代表的なものは「法華七譬」と呼ばれ、古くから親しまれています。「七譬」のうち最初の「三車火宅の譬え」が説かれるのが、譬喩品です。この譬喩品を中心に譬喩の意義について語っていこう。
 須田 はい。では最初に、譬喩品の全体像を概観しておきたいと思います。
2  三車火宅の譬え
 遠藤 譬喩品は、舎利弗の深い歓喜の言葉から始まります。方便品(第二章)の開三顕一の説法を聞いて領解した歓喜です。
 舎利弗は、その喜びを全身で表現しています。
 「爾の時に舎利弗、踊躍歓喜して、即ち起ちて合掌し」(法華経一四八ページ)と。舎利弗は躍りあがって喜び、起って合掌したのです。
 大聖人は「色心の二法を妙法と開悟するを歓喜踊躍と説くなり」と仰せになっています。「歓喜踊躍」とは、我が「色法」も、我が「心法」も、ともに「妙法」と一体であると悟った喜びなのです。
 斉藤 しかし、他の弟子たちは、まだわかっていません。そこで舎利弗は、他の弟子たちのために、「未だかつて聞いたことのない法」のいわれを説いてくださいと釈尊にお願いします。それに応えて説かれたのが「三車火宅の譬え」です。
 遠藤 法華経の七譬の最初です。この譬喩品の三車火宅の譬えに続いて、信解品(第四章)では「長者窮子の譬え」が説かれ、薬草喩品(第五章)で「三草二木の譬え」、化城喩品(第七章)で「化城宝処の譬え」、五百弟子受記品(第八章)で「衣裏珠の譬え」、安楽行品(第十四章)で「髻中明珠の譬え」、如来寿量品(第十六章)で「良医病子の譬え」が次々と説かれていきます。
 池田 譬喩品のみならず、法華経全体からいっても、譬喩は重要な意味をもっている。
 方便品に「諸法寂滅の相は言を以って宣ぶべからず」(法華経一四二ページ)とあるように、仏の悟った甚深の法は、もとより言葉によっては表現しがたいものです。かといって、仏の悟りの法が仏の胸中にのみとどまっていれば、衆生の成仏の道を閉ざすことになってしまう。
 仏が譬喩を駆使して語るのは、まさに衆生の心に仏道を開示せんがためです。
 須田 それでは、三車火宅の譬喩を、あらまし紹介したいと思います。
 ──ある町に年を取った一人の大長者がいました。長者の家は大邸宅でしたが、古くて、建物は傾き、ボロボロの状態でした。
 その古い大きな家に突然、火事が起こり、たちまち家屋敷全体が火に包まれてしまう。家の中には、長者のたくさんの子どもたちがいました。
 家が燃え、崩れ落ちようとしている。危険ががいよいよ我が身に迫っている。
 しかし、遊びに夢中になっている子どもたちは、そのことに誰も気づかないし、気づこうともしない。
 「三界は安きことなし猶火宅の如し」(法華経一九一ページ)とあるように、焼けている家(火宅)は、煩悩の炎に包まれた現実の世界(三界)を譬えています。その描写がすごい。
 遠藤 毒虫、蛇、鼠、狐狼、夜叉、悪鬼、魑魅魍魎(ちみもうりょう)、そして突然、あがる火の手。まるで現代のホラー映画を見ているように、これでもかこれでもかと、おどろおどろしい光景の連続です。そして、場面は一転して、無邪気に遊ぶ子どもたちの姿が現れる。
3  池田 優れた映画の見事なカメラワークを見ているようだね。
 「人生は火宅の如し」。一日一日を、何も考えず享楽的に生きる人生の危険を、強烈なイメージで焼き付けることに成功している。
 法華経は、人生の苦しみを非常にリアルにとらえている経典です。そこに法華経が文学的にも高く評価されてきた一つの理由があると思う。魯迅も火宅の炎を素材に「死火」という文章を書いている。
 斉藤 現実を幻ととらえる傾向の強い他の大乗経典と大きく異なるところです。諸法即実相、現実即真理ととらえる法華経らしい特徴だと思います。
 池田 それもあるだろう。しかし、その心は「慈悲」です。衆生を何とか救おうという「救済の心」であり、衆生の苦悩に対する「同苦の心」です。
 遠藤 三車火宅の譬えの後半は、その救済の物語です。
 ──長者は火宅に飛び込み、子どもたちに早く家から出るように告げます。しかし、遊びに夢中になっている子どもたちは、火事だということがわからない、焼け死ぬということがどういうことなのかもわからず、ただ家の中を走り回っています。
 そこで長者は、一計を案じて、子どもたちに「お前たちが欲しがっていた羊の車、鹿の車、牛の車が門の外にあるよ。早く家から出なさい。好きな車をあげるから」と呼びかけます。すると子どもたちは、喜び勇んで争うようにして燃えさかる家から走り出る。こうして子どもたちは救われました。
 須田 子どもたちが、早く約束の車をくださいと父に言ったら、長者は、羊の車、鹿の車、牛の車ではなく、「等一の大車」を与えた。それが「大白牛車」です。
 三車は、三乗の法を譬えています。つまり、羊車は「声聞のための教え」、鹿車は「緑覚のための教え」、牛車は「菩薩のための教え」です。そして、実際に子どもたちに等しく与えた大白牛車は一仏乗、すなわち「仏になる教え」を譬えています。
 遠藤 言うまでもなく、「長者」は仏、「子どもたち」は一切衆生です。
 子どもたちが火宅で遊んでいるのは、衆生が苦悩の世界にいながら、そのことに気づかず、やがて苦しみの炎に焼かれてしまうことを表しています。
 羊車、鹿車、牛車で、子どもたちの気を引きつけたのは、仏が衆生を救うために、衆生機根に合わせて、三乗(声間・縁覚・菩薩のための教え)を説くことです。
 大白牛車を与えたのは、仏の真意は三乗ではなく一仏乗であると明かすこと、すなわち「開三顕一」です。

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