Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

方便品(第二章) かけがえのない個々の…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  斉藤 諸法実相が、一切衆生の成仏の「根元」の法理であることを確認できました。諸法実相の現代的な意義について、さまざまな角度から語っていただきたいと思います。
 「諸法すなわち個々の生命」が即「実相すなわち宇宙生命」と一体である──部分が即全体であるという、この不可思議な関係を明らかにしたのが諸法実相の法理ですが、現代科学の各分野でも、全体は部分の単なる総和ではなく、個の中に全体が含まれているということを主張するようになっています。
 池田 その通りだね。
 このあたりから見ていくと、現代人には、むしろ分かりやすいかもしれない。
2  「個」の中に「全体」を見る
 遠藤 個に全体が含まれていることを示す科学的な知見は数多くあります。最も分かりやすいのは、細胞の中にあるDNA(デオキシリボ核酸)の話でしょうか。
 DNAというのは、生命体の遺伝情報を担う物質で、生命のすべての細胞の中にあります。人間の身体を構成している細胞はほぼ二百種類あり、さまざまな異なる働きをしています。ですから、それぞれの細胞に含まれるDNAは当然異なっていると考えるのが自然です。
 しかし実際には、ほとんどすべての細胞に同じDNAがある。つまり、髪の毛を作っている細胞であれ、肝臓を作っている細胞であれ、どの細胞ひとつとっても、そこには身体全体の情報が入っていることになります。
 須田 だから、「ジュラシック・パーク」というアメリカの恐竜映画にあったように、化石から取り出した一つの細胞があれば、絶滅した恐竜でも再生できるということが理論的には成り立つわけですね。
 池田 どの細胞のDNAにも、すべての情報が入っているからこそ、その細胞が身体のどこに位置するかによって、その位置に適った機能を発揮できる。髪の毛なら髪の毛、肝臓なら肝臓と。それで、身体全体の調和がある。生命の妙です。
 戸田先生は、生命体の各部分が、あるべきところにあることを、「衆生法妙」の譬えに挙げられていた。(「大白蓮華」での座談会「生命の不思議をめぐって」の中で)
 斉藤 一つ一つの細胞の中の遺伝子に、身体全体の情報が入っているということですが、このことを巨大な図書館に譬えた人もいます。笑い方、泣き方、歩き方など、私たちの身体が、どのように振る舞うか、という情報のすべてが、この細胞の「図書館」に所蔵されていると言うのです。
 一説によると、一つの細胞に収められている情報は、五百ページの本千冊に相当するそうです。ちなみに、生きている間に習得した情報を保存する脳を図書館に譬えれば、収まる情報量は二千万冊にもなると言われます。
 池田 ″脳の世界″は、二十一世紀の科学の最大のフロンティアとされる。まさに一つの小字宙というべき広大な世界です。これまでの研究によって、脳の部位ごとの働きなどが明らかになってきたようだね。
 須田 はい。喜怒哀楽の感情はもとより、○や△、×といった記号を識別する脳の部分まで発見されているということです。
 池田 ところが、脳の研究が進むにつれて、脳というのは、単にそれら部分部分の働きを集めただけのものではないことが明らかになってきた。
 最近の脳神経外科のリポートによると、人間の脳には理論的・知的な機能を司る「左脳」と、創造的・感覚的な機能を担う「右脳」があるとされている。しかし驚いたことに、片方の大脳がすっぽり欠けている人がいるという。(以下、「驚異の小宇宙・人体2 脳と心」5 NHK取材班〈日本放送出版協会〉を参照)
 社会的にも何不自由ない生活を送っていたある青年は、たまたま受けた脳の精密検査で左大脳半球がないことが分かった。知的能力を担っている左脳がないのだから、従来の常識からいえば、その青年は言葉を理解できないし、右半身も不自由なはずです。しかし、実際にはそうではなかった。つまり、残された右脳が、欠けている左脳の役割まで肩代わりしていたと言うのです。
 遠藤 生命は本当に神秘ですね。脳に欠損部があるため、機能障害をもった子どもが、成長するにしたがって脳が自己修復していき、成人するころには正常な状態になっていたという例も数多く報告されています。
 そうした脳欠損の障害をもつ子どものために、その子を他の子どもたちと一緒に育て、絶え間なく刺激を与え続けるようにしている保育園もあるそうです。そのなかで、たとえば脳幹と前頭葉の一部しかなかった子どもでも、根気強く接することによって、他の子どもと一緒に遊べるようになった例もあります。
 池田 なるほど。生命には測り知れない可能性がある。その莫大な力が、明らかになってきているようだ。だから、どんな人に対しても、あの人はダメなどと決めつけてはいけないね。とくに自分自身の可能性を決めつけてはいけない。多くの場合、「行き詰まり」は、自分自身のそうした決めつけから生まれているものです。
 斉藤 脳のこうした機能について、ホログラムの原理との相似を指摘する人もいます。
 ホログラムは光の波を重ね合わせることによって作り出す三次元の立体像です。この一つのホログラムのフィルムがいくつかに切り離されても、どの一つの断片からも元の全体像を見ることができるのです。前ほど、くっきりした像にはなりませんが、ともかく全体の立体像が見えるのです。
3  池田 「一粒の砂に世界を見る」という詩人(ブレイク)の直観を思い出すね。
 須田 「個」の中に「全体」が含まれているという意味では、近年注目されている「フラクタル理論」があります。
 これは、もともとは幾何学の理論上生み出されたもので、一部と全体が同じ形をもっているという自己相似性をもった構造をいいます。じつは、この「フラクタル構造」は自然界のいたるところで見られます。人間の肺の気管支の枝分かれの仕方は、その細部を拡大しても全体と同じ枝分かれをしている点で「フラクタル」です。ほかにも、脳の中の細かな血管の分かれ方。川の支流が描き出す形。雲の形。樹木の枝分かれ。これまで、規則牲がないように思えた自然界の諸現象に、「個」と「全体」の相似性が見られるのです。
 さらに、自然現象に止まらず、通信のエラーや株価の変動、所得の分布といった社会現象にも「フラクタル構造」を見ることができると言います。
 遠藤 個の中に全体があることは、十界論で言えば、十界のそれぞれ(個)に十界(全体)があるということになります。つまり、十界のそれぞれが小字宙であるということです。
 須田 十界互具ですね。これは、一個の生命に十界を具するということですが、それと同時に、宇宙生命自体も十界を具しているということです。戸田先生は、生命論に関する座談会で、次のように言われています。
 「地球状態の他の星でも同じことですが、人間を感ずる、感ずるというと、ちょっとおかしいが──大宇宙ぜんぶが十界ですから、そこ(=その星)において人間生命がそれに応じて、なんらかの形で出現する。あるいは、ここに、イヌだのネコだのいるとする。仮定ですよ、これは。そこに人間が一人もいなかったとすると、その畜生界にその人間界を感ずるのです、十界互具だから。そうすると生まれるのが人間みたいなのが生まれるのです」(『戸田城聖全集』2)
 斉藤 感応の妙ですね。大宇宙そのものが十界全てを具足した当体であり、宇宙に具わる十界が、それぞれの星の状態の、それぞれの縁に応じ、また時を感じ、何かに感応して現れてくる……。
 十界互具の法理は、進化論など生物哲学の分野にも重要な示唆を与えるものではないでしょうか。
 池田 今後の研究課題でしょう。部分即全体という諸法実相の智慧から見るならば、万物は、それぞれが全宇宙の宝をもつ尊極の存在です。
 方便品に、諸法実相を言い換えて「是の法は法位に住して世間の相常住なり」(法華経一三八ページ)と説かれている。世間の相(諸法)は常住の妙法の姿(実相)である、と。
 天台も「一色一香も中道に非ざること無し」(『摩訶止観』)と言った。一色一香とは、微細な物質を指します。いかなる微細な物も中道実相の当体、すなわち宇宙生命の当体だということです。
 その意味で、自然も、人間が一方的に消費し支配する対象では絶対にない。自然も人間も同じ宇宙生命の部分であり全体である。自然と人間は一体です。自然を破壊することは、人間を破壊することです。
 遠藤 諸法実相の法理は「環境倫理」の問題にも直結しているわけですね。
 池田 そう。大聖人は「生住異滅の森羅三千の当体ことごとく神通之力の体なり」と仰せです。生滅し、変化してやまないすべての現象は、それ自体、如来の神通の力である、と。変化、変化を続ける万物も、じつは、そのままで常住であり、中道であり、実相であり、如来なのです。
 戸田先生は言われた。
 「つきつめるなら、万物の一瞬を如来とは読むべきである。(中略)吾人の生命のみならず、宇宙の万物は、一つとして一瞬も変化せざるものはない。一刻一刻に変化へ、変化へとたどるのである。されば、いかなるものでも、如々として移るので、家の如きもの、あるいは、家そのもの、そのものとして変化し、刻々に土くれとなり、塵となり、土くれは土くれ如きもの、土そのもの、塵そのものとして、また分解の作用へと進むのである。
 万物を『如きもの』として観ずれば、これは仮の義で、仮のすがたなるがゆえに、実体にあらずとすれば空の義である。
 もし、一瞬一瞬がそのままの存在とみるなら、それは中道である。されば、一瞬一瞬の万物も、相、性そのままが実相であるのである。われらも、この一刻一刻の生命、生活が実相で、この一瞬の実相のうちに過去久遠の生命を含み、かつ、未来永遠の生命をはらむのである。この一瞬の生命のうちに、過去久遠の生活の果を含み、未来永劫の生命の因を含む、これ蓮華の法である。
 この一瞬の生命こそ、宇宙自体の活動であり、自己の生命であり実在である。この宇宙の一瞬一瞬の活動は、時々刻々に変化した種々の現象として表現し、万象ことごとく活動のうちに変現する。これを、『神通の力』というのである。だれが、どういう力を与えるのでもない。それ宇宙の万象自体が、あらゆる他の活動を縁として変貌自在するのが、宇宙の実相である」(『戸田城聖全集』1)
 戸田先生の諸法実相観が述べられています。先の法華経、天台、そして大聖人の御言葉と寸分もたがわない。よくよく味わい、会得していくべき言葉です。

1
1