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日蓮大聖人・池田大作

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方便品(第二章) 「諸法実相」の心──…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  斉藤 ある草創の大先輩から″秘話″をうかがいました。
 それは、池田先生が『撰時抄講義』を執筆されていたときのお話です(一九六四年)。先生は、教学部の最高幹部にも意見を聞かれながら、御文の一文一句に、全魂で取り組んでおられた。そのすさまじい様子を、この方は側で拝見する機会があったそうです。
 遠藤 「撰時抄」は、世界広宣流布の未来記と言われる重書ですね。日蓮大聖人は、広宣流布の時には万民が一同に南無妙法蓮華経と唱えるであろうと宣言されています。
 斉藤 ちょうど、その部分に「前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし」という御文があります。
 正法に目覚めない人々が法華経の行者を迫害し、なおも謗法を続けるならば、前代未聞の大闘諍が全世界に起こるであろう、と。
 そこにいた教学部の幹部の方は、この御文を″第三次世界大戦が起こる″という意味ではないかと解釈されたそうです。事実、当時は、東西冷戦、核軍拡競争の渦中であり、そういう懸念の声は高かった。しかし、池田先生は、厳然と言われた。
 「もし本当に第三次世界大戦が起これば、原水爆等によって、人類は滅亡してしまう。かつての大戦以上の悲惨と苦悩を、人類は、また味わわなければならないのか。それでは仏法者として、あまりに無慈悲ではないか。
 われわれは、第二次世界大戦をもって、『前代未聞の大闘諍』と決定しよう。どんなことがあっても、第三次世界大戦は起こさせない。そのことを御本尊に強く願い、死身弘法を誓おうではないか。広宣流布という世界の恒久平和、人類の幸福を、必ず達成しようではないか」と。
 お話をうかがった先輩は、本当に感動したそうです。そして、しみじみと言われていました。
 「世に、さまざな終末論を唱える宗教があります、無責任に人々の不安をあおり、なかには終末を待望する人々さえいます。日蓮大聖人の仏法が、それらとまったく正反対であることを、池田先生は断固として教えてくださいました」と。
 池田 そうですか。大聖人の仏法は、どこまでも平和の仏法です。全世界を平和に! それこそ大聖人が目指されたものなのです。そのために「立正」を、そのために「法華経」をと叫ばれたのです。
 戦争の危機をはじめ、いかなる苦悩の現実も、絶対に変革できる。変革しなければならない。これが大聖人の御確信です。「立正安国」の御一念です。
 この大聖人のお心を受け継いで、全人類の幸福のために学会は立ち上がったのです。
 五十年前──戸田先生は、第二次大戦後の焦土に一人立たれ、叫ばれた。
 「日本民族をこれ以上惨苦の底には堕としたくない」「悩みの世界をだれが救い、だれが助けるのか」「いまこそ広宣流布の時である」と。
 今、語り合っている方便品に「諸法実相」と説かれている。結論的に言えば、じつはこの「諸法実相」こそ「現実変革」の原理なのです。この点について論じたいと思うが、どうだろうか。
 遠藤 はい。ぜひ、お願いします。「諸法実相」とは何か。真剣に思索したいと思います。
2  現実の諸法から離れない実相
 斉藤 まず初めに、「諸法実相」が方便品に、どのように説かれているかを見ていきたいと思います。
 須田 私たちが、毎日、勤行で読誦しているところですね。「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯、仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」(法華経一〇八ページ)と。
 斉藤 この文の前後には、「仏の智慧が、いかに素晴らしく、いかに理解し難いか」が繰り返し説かれています。
 その仏の智慧について、ここでは具体的に、「諸法の実相」を究めた智慧なのだと強調しています。そして、その実相とは何かが、如是相、如是性……如是本末究竟等と続く「十如是(十如実相)」で表現されています。
 須田 前に、「開三顕一」(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗を開いて一仏乗を顕す)について論じていただきました。
 天台は、この「諸法実相・十如是」前後の部分を「略開三顕一」を表すと言っています。「開三顕一」が″略して″明かされている、と。
 池田 仏が出現したのは、ありとあらゆる人々を仏にするためである。仏になることこそ人生の根本目的であり、その他の目標は「方便」の低い目標に過ぎないことを教えたのです。いわんや名聞名利など、人生の真の目的ではない。
 「開三顕一」は、「仏の真意を明かした」ものであり、同時に「人生の真の目的を明かした」のです。
 ただし、″略″開三顕一だから、ここでは″かすかに″しか示されていない。
 そのことを大聖人は″寝ぼけた人が、初めて鳴くほととぎすの音を一回だけ聞いたようなものだ″と譬えられている。鳴いたけれども、聞こえたかどうか分からない(笑い)。それほど″かすか″だと。(御書二〇八ページ、趣意)
 しかし、仏はたしかに「真意」を説いたのです。大聖人は「仏略して一念三千・心中の本懐を宣べ給う」と仰せです。それが諸法実相・十如是の文です。
 また「一切衆生皆成仏道の根元と申すも只此の諸法実相の四字より外は全くなきなり」と述べられている。″すべての人を仏に″という法華経の主張の根っこは、諸法実相にこそあると仰せなのです。
3  須田 たったの四文字が、なぜ一切衆生の成仏の根源になるのか。そこですね、むずかしいのは……。
 遠藤 基本的な意味から確認したいと思います。
 「諸法」とは、この現実世界において、さまざまな姿・形をとって現れている″すべての現象″と言えます。
 「実相」とは、文字通り″真実の相″、すなわち″真理″と言ってよいでしょう。天台によりますと、実相の「相」の字は、″真理は見えないが、諸仏がたしかに覚知した壊せないものであることを示している″ということです(『法華玄義』、要旨)。
 池田 見ることはできないが、厳として実在するということだね。
 斉藤 はい。そして「十如是」は、「十如実相」と言われるように、この″見えないが、実在する実相″を言い換えたものです。
 「如是」は″このような″という意味で、それぞれの現象、個々の生命(諸法)について、仏は「このような相(如是相)、このような性(如是性)、このような体(如是体)……」と実相を知見したと言うのです。
 池田 そう。「諸法の実相」と説かれていることが大事だね。真理(実相)と言っても、どこか遠い別世界にあるというのではない。具体的な現象(諸法)から絶対に離れず、あくまで、この具体的な現実(諸法)の真実の姿(実相)に、英知を集中させている。
 寿量品(第十六章)にも「如来は如実に、三界の相を知見す」(法華経四八一ページ)とあります。三界とは現実世界です。
 現実世界(諸法)から決して離れない決心──これが仏の心なのです。
 同時に、現実世界(諸法)の表面にとらわれず、そこに秘められた偉大なる真実の姿(実相)をとらえ、教え、開いていく──これが仏法の智慧なのです。
 「諸法実相」という言葉の中に、仏法の徹底した「現実主義」と、「現実を超えていく智慧」が込められているのです。

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