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方便品(第二章) 開三顕一──「師弟の…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  斉藤 先日、池田先生がマンデラ大統領(南アフリカ共和国)と再会された記事(聖教新聞一九九五年七月六日付)を読みました。
 会談の内容も素晴らしく、何より感動したのは、前回の出会い(一九九〇年)以来、池田先生が、アパルトヘイト(有色人種への差別・隔離政策)反対を訴える″人権写真展″をはじめ、文化・教育による多角的な支援の提案を実現してこられたという″事実″です。
 池田 マンデラ大統領は「正義の巌窟王」であり、現代の英雄です。その人権闘争を支え、受け継ぐ南アフリカの人々もまた偉大です。世界への精神的影響も大きい。
 大統領のような闘士が一人いれば、皆が学び、仰ぎ、全人類の境涯が高められる。大統領の戦いを支持し、広く知らしめていくことが、人類全体の人格を高めることに通じるのです。
 世界には、血涙の苦闘のさなかの人々が、数限りなくいる。この方々にとって、大統領の行動が、勝利が、どれほどの希望の光明と輝いていることか。
 遠藤 日本にいると、なかなか分からないですね。″人権後進国″ですから。
 池田 そう。境涯を変えなければいけない。現代は文明社会全体が科学技術に頼り、経済競争に目を奪われ、自然を破壊し、殺戮兵器をつくり、不信と欲望をエスカレートさせている。
 まるで精神的な″幼児″が、危険な″火器″を弄んでいるようなものだ。人間を取り巻くものは変わったのに、人間だけが変わっていない。
 法華経の意義は、そうした未熟な人類を、賢き人類へと変革させていくことにある。「仏界」という、一人一人の内にある最高の境涯を開発することにある。全人類の境涯を高めたい──この一点に、戸田先生の願いと悩みもあった。
 ″我ら学会員こそは、「地涌の菩薩」である。「如来の使い」「日蓮大聖人の使い」と確信すべきである。この確信に立つとき、私どもは「如来の事」を行わなくてはならない。それは何か。それは一切の人をして仏の境涯におくことである。すなわち、全人類の人格を最高の価値にまで引き上げることである″と。
 全人類を仏に──。戸田先生は、別の折にも言われている。法華経の「開三顕一」で明かされる「一仏乗」こそ、″人類が志求すべき最高の境涯″を教えていると。ここでは、この戸田先生の達観を指標として、方便品の「開三顕一」の法門を探究してみよう。
2  法開会と人開会
 斉藤 はい。先にもふれましたが、まず基本的なことを確認しておきたいと思います。
 「開三顕一」とは、方便品に始まる法華経迹門の中心的な説法の内容を要約した言葉です。「三乗を開いて一乗を顕す」という意味です。
 「三乗」とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三つをいいます。それぞれ、声聞のための教え、縁覚のための教え、菩薩のための教えという意味です。「乗」と言われているのは、教えを乗り物に譬えています。仏の教えは、人を乗せて、より高い境涯へと運ぶものだからです。
 また「一乗」とは″唯一の教え″という意味です。仏の唯一の教えは″仏に成る″ための教えなので「仏乗」とも「一仏乗」とも言います。これには、仏自身が乗ってきた乗り物という意味もあると考えられます。
 仏自身が歩んできた道を教え、仏自身が乗ってきた乗り物を与えるのが一乗です。
 遠藤 方便品では、いわゆる「開示悟入の四仏知見」として一乗を明かしています。すなわち、衆生に仏知見を開かせ、示し、悟らせ、仏知見の道に入らせるのが、仏の唯一の教えです。またこれが、仏がこの世に出現した唯一の目的であるという意味で「一大事因縁」とも言われています。
 仏知見とは、仏の智慧であり、悟りです。一切の究極を知る最高の智慧なので、方便品では「一切種智」とも言われています。この智慧を開いて得る最高の悟りを「無上菩提(阿耨多羅三藐三菩提)」と言います。仏知見こそ、一乗が教えるものなのです。
 須田 ところが、この仏知見は簡単には分からない。言葉を超え、思考を超えているからです。人間だれしも、種々の異なった執着を持っている。
 ゆえに、いきなり随自意で仏の真意(仏知見を開示悟入すること)を説いても理解できないし、拒否したり不信を起こして悪道に堕ちてしまうかもしれない。そこで随他意として、衆生の機根に合わせた教えが必要になってくる。
 ここから仏の「方便の力」によって、衆生の生命状態に応じて説かれた教えが三乗です。それは、仏知見を教えるものではない。仏の真の目的ではない。しかし、目的である一乗を教えるためには、その衆生に対して不可欠の手段になるものです。
 池田 方便品では、三乗の教えを仏が説いた″真意″は、一乗にあることを徹底して説いている。これが開三顛一です。仏の教えは一乗だけであり、二乗も三乗もないと強く言っています。
 「如来は但一仏乗を以っての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」(法華経一二一ページ)とある。これは「顕一」(一乗を顕す)の面です。
 また「諸仏、方便力を以って、一仏乗に於いて分別して三と説きたもう」(法華経一二四ページ)とあるのは、「開三」(三乗を開く)の面を言った経文です。三乗は、一仏乗を仏の方便の力で説き分けたものであると。仏の真意は一仏乗にしかないことを、方便品では繰り返し強調するのです。
 このように、「三乗は方便」「一乗こそ真実」と明かして、三乗を一仏乗のもとに統一することを「開会」と言う。この開会には人と法の二面がある。
 斉藤 はい「法開会」は、今述べられたように、三乗を一乗に統一することです。統一された後は、三乗の教えも一乗のなかに正しく位置づけられ、それぞれに意義があることになります。部分観として生かされるのです。
 これに対して「人開会」とは、一乗によって教化される衆生はすべて菩薩であると明かすことです。方便品に「諸仏如来は但菩薩を教化したもう」(法華経一二一ページ)とあり、また「但一乗の道を以って諸の菩薩を教化して声聞の弟子無し」(法華経一四五ページ)等とあります。これは一仏乗という乗り物を示して、一切衆生、とくに声聞・縁覚という二乗に、これに乗りなさいと呼びかける。
 それによって二乗も、菩薩へと統一されます。菩薩とは「成仏を目指す人」であり、より深くは「成仏が確定した人」です。その意味で摩訶薩(偉大な人)とも言われます。
 池田 要するに、仏の教えは「一仏乗しかない」と、はっきり言うことは、一切衆生が菩薩であると示すことになる。二乗も菩薩であり、仏に成れるのです。
 人開会は、一乗の教えがすべての衆生を成仏させることを強調するものです。その要が法華経の「二乗作仏」です。この法と人の二面から見ていけば、開三顕一が理解しやすいのではないだろうか。とくにここでは、人開会つまり二乗作仏を中心に考察していきたいと思うが、どうだろうか。
 斉藤 賛成です。二乗作仏こそは法華経の独自の法門ですから。
3  二乗作仏の意義──十界互具
 遠藤 「二乗作仏」については、私も教学試験のたびに教わりました。先輩たちが必ず言うことには「二乗根性にはなるな」と(笑い)。二乗というと、頭はよいけれども、それを鼻にかけていて、利己的で、人を救おうという慈悲がなくて──という悪いイメージが強いのですが。
 池田 それだけでは、二乗がかわいそうだね(笑い)。たしかに、そういう面もあるだろうが、多くの場合、そういう人は「エセ二乗」であって、二乗を二乗たらしめている激烈なまでの「求道心」をもっていない。「真理への渇仰」がない。
 戸田先生は、皆に分かりやすいよう意味を広げて、現代において二乗とは「知識人」にあたり、本来ならば「世の宝」となる人々であるとされています。
 たとえば、ノーベル賞をいくつももらうような大学者、大哲学者をイメージすればよいかもしれない。しかも名聞名利を捨て、私利私欲を滅し尽くそうと努力している。いわゆる大人格者です。その意味では、二乗など、なろうと思っても、そう簡単になれるものではない(笑い)。
 須田 それほどの仏弟子たちが、どうして永久に成仏できないとされたのか。考えてみれば不思議ですね。
 遠藤 法華経が説かれるまでは、その嫌われ方も辛辣です。
 ″焼いた種のように絶対、仏性の芽は出ない″(『大方等陀羅尼経』巻二)とか″地獄に堕ちるほうが、まだまし″(『華厳経』)とか(笑い)。
 斉藤 二乗の修行の理想は「灰身滅智」です。煩悩のよりどころとなる肉体も、苦しみを感ずる心の働きも、すべて滅した状態を目指します。「身も心もうせ虚空の如く成るべし」と。それでは、仏になるべき自分すら残りません。
 須田 また、二乗とよく比較されるのが、三乗のなかの菩薩です。菩薩には「利他」の心があるけれども、二乗には「自利」しかない。だから二乗は成仏できないのだ、と。
 池田 六道(地獄界からから天界まで)の世界を嫌うのが二乗ですから、そこから出て″虚空の如く″になったら、もう現実世界には戻ってこない。戻ってこず、六道の衆生を救おうとしない。じつは一切衆生に恩があることを忘れてしまう。
 「永く六道に還らんと思わず故に化導の心無し」。また「解脱のあなに堕して自ら利し及以および他を利すること能わず」です。救うべき人々を見捨ててしまっては、もはや仏法ではない。また、それでは自分も救われない。ゆえに「一念も二乗の心を起すは十悪五逆に過ぎたり」とされたのです
 須田 そうしますと″不知恩な二乗なんか放っておいて(笑い)、菩薩になればいいじゃないか″となるのが普通だと思うのですが。
 池田 それが三乗のうちの菩薩乗だね。しかし、″二乗は成仏できない。菩薩なら成仏できる″──じつはここには、重大な矛盾がある。ここのところを掘り下げれば、法華経が説かれなければならなかた理由も分かってくるのです。
 かりに二乗を放っておいて、菩薩になったとしよう。しかしそれでは、二乗が六道を救わないのと同じく無慈悲なのです。
 菩薩は「四弘誓願」といって、成仏を目指して四つの誓いをした。その一つ、「衆生無辺誓願度」とは、すべての衆生を救わんとすることです。二乗を不作仏のまま見捨てるなら、菩薩は、この誓いを捨てたことになる。誓いを捨てれば成仏はできない。
 大聖人は「所詮しょせんは二乗界の作仏を許さずんば菩薩界の作仏も許さざるか衆生無辺誓願度の願のくるが故なり」と仰せです。
 爾前経では″菩薩は仏になれる。二乗はなれない。このことを菩薩は悦び、声聞は嘆き、人界・天界の衆生等は思いもかけない″(御書四〇一ページ、趣意)等というが、ここに大きな錯覚がある。菩薩も、自分だけは大丈夫だと笑ってはいられないのです。
 遠藤 道理ですね。

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