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方便品(第二章) 方便──巧みなる「人…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  池田 今は乱世です。思想も社会も乱れている。
 そうしたなか、心ある人々は、日本と世界の行く末を真剣に考え始めた。このままでは、柱のない家のように、人間も社会も崩れていくのではないか──そういう危機感を強く抱いているようです。
 そして、人間が人間として、どう生きるのが正しい軌道なのか、その「道」を模索している。宗教についても、遠い無関係の世界のものとしてではなく、どう見ればよいのか、どう考えればよいのか、どう関わるべきなのか、切実な関心が寄せられ始めたようだ。
 その意味でも、この座談会で、法華経を通して「二十一世紀の宗教」を考えていくことは重大な意義があると思う。
 きょうも、語りに語っていこう。
 斉藤 はい、よろしくお願いします。
 ここから、いよいよ、方便品(第二章)です。私たちは、朝夕の勤行で読誦していますので、親しみがあります。また、池田先生による「方便品・寿量品講義」も聖教新聞紙上で連載されています。(一九九五年五月から九六年三月まで四五回連載)
 方便品は、法華経二十八品の中でも、譬喩品(第三章)、化城喩品(第七章)についで長い章です。私たちが読誦している、冒頭から諸法実相・十如是までの部分は、方便品全体の二十分の一ほどにすぎません。しかし、日寛上人は、そこまでに方便品の最重要の法門が説かれていて十分であると延べられています。
 池田 そうだね。法門的に見れば、方便品は、本門の寿量品(第十六章)とともに、法華経の最重要の章です。南無妙蓮華経の意義を知るうえで方便品の理解は欠かせない。その意味でも、初めに方便品全体の展開を見ておいたらどうだろうか。
2  方便品の展開
 須田 はい。釈尊は序品(第一章)で無量義処三昧という瞑想に入っていました。方便品では、釈尊がこの三昧から立ち上がり、突然、舎利弗に対して「諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり」(法華経一〇六ページ)と、″仏の智慧の素晴らしさ″を語り始めます。
 池田 法華経における釈尊の第一声だね。この第一声に意味がある。法華経が仏の智慧をそのまま説こうとした随自意の教えであることが劇的に表現されています。
 甚深無量の仏智は、仏にしか分からない。だから釈尊が、だれに問われるのでもなく、みずから諸仏の智慧を賛嘆し始めたのです。方便品冒頭の説法が「無問自説」(『法華文句』)の形式を採っているのも、問うことさえできないほど、仏の智慧は深く、無量だからです。
 遠藤 たしかに、仏が成就した法は「未曾有の法」であり「第一希有難解の法」であるから、仏以外には分からないと説いています。
 池田 「唯だ仏と仏のみ諸法の実相を究尽したまえり(唯仏与仏、乃能究尽諸法実相)」(法華経一〇八ページ)とあるね。
 智慧第一とたたえられた舎利弗に向かって「お前たちにはとうてい分からない」と、いきなり決めつけ(笑い)、突き放したわけですから、皆、驚いたことでしょう。
 須田 対告衆になった舎利弗は、ショックで心臓が止まりそうになったかもしれませんね(笑い)。
 斉藤 舎利弗は、いわば二乗のチャンピオンであり、自他ともに一番優秀だと認めていた。その舎利弗の智慧も遠く及ばないと宣言することで、仏の智慧の素晴らしさが強調されているわけです。
 遠藤 作劇法としても、見事ですね(笑い)。ドラマチックな効果をあげています。
 池田 その通りだ。そこで問題は、その智慧の中身は何かということになる。
 遠藤 方便品では、仏と仏とが成就した法を「諸法実相」と表現しています。天台はこれを一念三千の法理として展開し、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経と説かれました。
 池田 そう。したがって、方便品の冒頭での仏智の賛嘆は、文底から言えば、南無妙法蓮華経の賛嘆にほかならない。そこに、私たちがこの部分を読誦する最大の理由があります。
 それでは、「妙法」という真実の「仏の智慧」を説き出した章が、なぜ「方便品」になっているのだろうか。
 遠藤 なぜ「仏智品」でもなければ「真実品」でもないのか──たしかに、ここに方便品の核心があると思います。
3  須田 それを考えるうえでも、もう少し、方便品の説法の流れを追いたいと思います。
 仏の智慧を賛嘆してやまない釈尊に対し、一座の疑問を代表して、舎利弗が「ぜひ仏の真実の法を説いてください」と嘆願します。三回お願いして、やっと三回目に釈尊は応じ、説き始めようとする。
 遠藤 その大事な時に、五千人の増上慢の僧尼や信者が座を立っていってしまいます。釈尊は、去る者は追わずで、構わずに黙って去らせます。(法華経一一八ページ)
 池田 この「五千の上慢」については、いろいろ論ずべきことがあるが、増上慢の人間は、一番大事な時にいなくなるものです。
 釈尊は、巌然と舎利弗に宣言する。
 「是の如き増上慢の人は、退くも亦佳し。汝今善く聴け、当に汝が為に説くべし」(法華経一一九ページ)
 そして諸仏がこの世に出現した目的──「一大事因縁」とは、衆生をして仏知見(仏の智慧、仏界)を開かしめ、衆生に仏知見を示し、仏知見を悟らせ、仏知見の道に入らせることであったと教えるのです。
 須田 要約しますと、「諸仏・世尊は、ただひとつの偉大な仕事を目的として(一大事因縁)のためにのみ、出現される」と説かれます。
 そして、その「特別に大事な目的」の内容が、「開・示・悟・入]の「四仏知見」として明かされます。
 池田 衆生の仏知見(仏界)を開かせるということは、衆生に仏知見がそなわっているということです。仏知見があるのは、衆生が本来、仏だからです。つまりこれは「衆生こそ尊極の存在なり」という一大宣言なのです。
 遠藤 いわゆる「三乗方便・一乗真実」ということですね。
 「三乗」とは、二乗(声聞乗・縁覚乗)と菩薩乗です。乗とは、″迷い″から″悟り″へ運ぶ乗り物のことで、仏の教えのことです。声聞のための教え、縁覚のための教え、菩薩のための教えという意味です。
 しかし、三つの別々の教えがあるのではない。仏の教えには、ただ「一乗」があるだけだと言うのです。「一乗」とは″唯一の教え″という意味です。それは″仏に成るための教え″であるから「一仏乗」とも言います。
 池田 衆生の側から見ると、三乗という別々の教えを説かれているように見えるが、仏の側から言えば、ただ一仏乗があるのみだということです。
 「一仏乗」とは、全人類を仏にする、全人類を「開示悟入」させる教えです。
 須田 三乗は、一仏乗に導き入れるための「方便」の教えであり、仏の「真意」は一仏乗にあるということですね。
 方便品では、この三乗を開いて一仏乗を顕すという「開三顕一」について、過去の諸仏、未来の諸仏、現在の十方諸仏、そして釈尊自身に当てはめていきます。それぞれの中には、種々の大切な法門が説かれていますが、ここでは省略します。要は、釈尊も含めて一切の仏が教えを説く真意は、一仏乗にあると言うのです。
 なお、開三顕一の説法は方便品で終わるわけではありません。人記品(第九章)まで続きます。法華経前半(迹門)の大テーマと言えます。

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