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日蓮大聖人・池田大作

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序品(第一章) 二処三会──″永遠″と…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  列座大衆──登場人物たち
 斉藤 冒頭の「如是我聞」の後、序品は「一時、仏、王舎城耆闍崛山ぎしゃくせんの中に住したまい」(法華経七〇ページ)と続きます。ここでは、法華経が説かれる「場所」が示されています。すなわちマガダ国の首都・王舎城の郊外にある耆闍崛山──霊鷲山です。さらに続いて、その説法の場(会座)に、どのような衆生が参列していたか(列座大衆、列衆)が挙げられていきます。
 池田 法華経のドラマが始まるにあたって、「舞台」と「登場人物」が紹介されているわけだね。
 須田 霊鷲山には、私も第一回のSGI(創価学会インタナショナル)インド青年文化訪問団の一員として訪れたことがあります(一九九〇年)。幽玄な霊地かと期待して行ったのですが、場所そのものは何の変哲もない岩山でした(笑い)。
 池田 それほど高くもないようだね。霊鷲山と呼ばれるのは、一説に、山頂の形が鷲に似ているからだと言われているが、その頂上付近が、釈尊の説法の場所だったと伝えられている。
 遠藤 「登場人物」ですが、経文の順に示すと次のようになります。
 (1)阿若憍陳如あにゃきょうじんにょや迦葉・舎利弗など、声聞の最高位である阿羅漢の境地を得た一万二千人の比丘たち。代表して二十一人の名が挙げられています。そのほかに学(阿羅漢果を得るために戒定慧の三学を学んでいる者)や無学(阿羅漢果を得て学ぶべきものが無い者)の二千人の声聞もいます。
 (2)釈尊の叔母・摩訶波闍波提比丘尼、釈尊の出家前の妻・耶輸陀羅やしゅだら比丘尼とその眷属数千人。
 (3)文殊菩薩、観世音菩薩など八万人の菩薩たち。代表して十八人の名が挙げられています。
 以上の声聞衆、菩薩衆のほかに、次のような娑婆世界のさまざまな衆生が集っています。
 (4)帝釈天、四大天王、梵天など天界の王や天子たち。その眷属は七〜八万、数え方によっては十数万になります。
 (5)八人の竜王とその眷属。
 (6)四人の緊那羅王とその眷属。
 (7)四人の乾闥婆王とその眷属。
 (8)四人の阿修羅王とその眷属。
 (9)四人の迦楼羅王とその眷属。
 (10)阿闍世王とその眷属。
 以上、ざっと数えて、少なくとも、数十万、解釈の仕方によっては数百万の衆生が法華経の聴衆です。
2  池田 実に多彩かつ膨大な大衆だね。天界の神々や竜王、緊那羅王など、人間ではないものも挙げられている。もちろん、これほど多くの大衆が、同時に霊鷲山に集まれるはずはない。
 須田 実際に訪れた感じを言いますと、釈尊が説法したとされる場所は、百人座れるかどうかという程度の広さです。しかも岩山ですから日陰もなく、真夏など到底、長時間座っていられるような場所ではありません。私たちが行ったときも、余りの暑さに、案内してくださったインドの人が倒れてしまうほどでした。
 池田 戸田先生が言われたように、法華経が表現しているのは、仏の己心の世界、悟りの世界です。何万人の大衆が登場しても差し支えない。
 斉藤 その意味で、列座大衆のそれぞれは、全て生命の働きの象徴と考えられます。十界でいえば、菩薩界、声聞界、天界、人界、修羅界、畜生界の衆生がいる。そこに挙げた大衆をもって九界全体を代表させているようです。つまり、序品の大衆は、仏の己心に包まれた九界の衆生の姿といえるのではないでしょうか。
 遠藤 そうとらえると、挙げられている大衆のそれぞれに意義があるはずですね。代表的なものの意味を考えてみましょう。
 須田 まず最初に挙げられている阿若憍陳如。彼は、釈尊が成道した後、初めて教化した五人の比丘の一人です。
 池田 いわば釈尊の最初の弟子だね。最後に挙げられている阿闍世王は、提婆達多と共謀して、釈尊に敵対した人物です。釈尊の晩年になってみずからの罪を悔い、釈尊に帰依したと伝えられている。最初の弟子と最晩年の弟子がいるということは、釈尊の一生の間の門下をすべて含めている象徴と見ていいかもしれない。
 斉藤 大聖人が御義口伝で列衆を論じられているのも、この最初の阿若憍陳如と、最後の阿闍世王についてです。
 池田 御義口伝では、列衆の意義を生命論から解明されている。
 阿若憍陳如については、「我等法華経の行者の煩悩即菩提生死即涅槃を顕したり」と。
 また父を殺し、母をも殺そうとし、釈尊に背いたのが、阿闍世王です。その反逆の生命については、法華不信の心や貪愛・無明を殺して成仏を遂げていく「逆即是順(逆即ち是れ順なり)」(『法華文句記』)の原理を表す、とされている。
 遠藤 その他の大衆も同様に、生命論から考えていくことができます。
3  須田 ところで、迦葉や舎利弗などの大声聞が列衆の冒頭に挙げられているのは、彼等が歴史的にも釈尊の教団を支えてきた有力な弟子であったことから当然といえますが、その直後に、摩訶波闍波提比丘尼や耶輸陀羅比丘尼を代表とする女性の声聞が挙げられていることが注目されます。また、阿闍世王の名を挙げる時も、母親の韋提希夫人の名をあげています。
 池田 「女人成仏」の象徴として、提婆達多品(第十二章)の「竜女の成仏」は有名だが、法華経で女性の成仏が説かれるのは、ここだけではありません。
 勧持品(第十三章)では、比丘尼たちに、将来、仏になるという記別が、すでに決まっていることを確認する形で授けられている。そのときの代表が、摩訶波闍波提比丘尼や耶輸陀羅比丘尼です。
 その女性の代表が、男性と並んで序品に紹介されている。法華経の特徴とされる「女人成仏」は、序品から既に予定されていたとみてよいでしよう。
 常不軽菩薩は「あなたがたは皆、菩薩道を行じて必ずや仏になることができる」と、男性にも女性にも、同じように呼び掛けている。
 法華経全体からみれば、仏になることにおいて男女に差別がないことは、当然のこととみなされていたのだね。
 斉藤 重要なポイントだと思います。
 次に登場するのは、八万人にも上る菩薩たちです。これらの菩薩については人々を救おうとする慈悲の行動がたたえられています。
 池田 初めに声聞、次に菩薩が挙げられている。法華経全体の対告衆(仏が説法する時の聴衆の代表者)を見ても、初めは舎利弗らの声聞だが、法師品(第十章)以降は、薬王らの菩薩に交代する。
 後にくわしく語ることにしたいが、声聞から菩薩へという担い手の転換が、法華経を理解する一つのカギになっている。
 遠藤 序品で登場する菩薩たちの名前も興味深いですね。文殊菩薩、観世音菩薩、弥勒菩薩、薬王菩薩などはよく知られていますが、常精進菩薩、不休息菩薩、宝掌菩薩、大力菩薩、宝月菩薩など、あまり聞いたことのない菩薩の名もあります。
 池田 それらも、すべて菩薩の生命のさまざまな側面を示したものと考えられる。
 常精進菩薩、不休息菩薩は文字通り、常に仏法のために休みなく戦い続ける生命を象徴している。「不休息」は、サンスクリットでは″重荷を捨てない″(アニクシプタドゥラ)という意味であるという。(『大乗経典』4〈松濤誠簾・長尾雅人・丹治昭義訳〉中央公論社、参照)
 須田 また、宝掌菩薩とは″宝を手にした″という意味ですし、勇施菩薩は″施しの勇者″といってもよいでしょう。宝月菩薩、月光菩薩、満月菩薩などは、さまざまな智慧の光で人々を照らすという菩薩の生命の働きを象徴していると思われます。
 遠藤 弥勒菩薩は″慈しみの師″という意味ですし、宝積菩薩は″宝の根源″を意味します。最後の導師菩薩は″キャラバン(隊商)のリーダー″の意味で、多くの人を成仏へと導いて行く指導者の働きを表しています。

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