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日蓮大聖人・池田大作

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序論 民衆に呼びかける経典  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  斉藤 これまでに、読者の皆さんから、たくさんの反響をいただきました。各地の座談会の研究発表などでも、さっそく活用してくださっているそうで、より多くの方々に喜んでいただくためにも、さらにさらに真剣に学んでいこうと決意しています。
 池田 しっかり頑張ってほしい。自分自身の勉強になるから。後世に恥じないものを残そう。 「日蓮大聖人の仏法」について、世界ではまだまだ知らない人が多い。また、非常に誤解されている場合もある。
 須田 日本では、軍国主義思想に利用され、国家主義的とか、国粋主義的とか言われてきました。真実とは正反対に。
 池田 そう。そこで、どうすれば大聖人の仏法を、正しく世界に理解させていくことができるか。そのためにも、「法華経」を語る意味はあるのです。
 法華経の真髄を説かれたのが大聖人です。法華経を学ぶことは、大聖人の仏法を学ぶことに通ずる。大聖人の仏法を学べば、法華経も分かっていく。表裏一体です。
 ゆえに法華経を語ることは、ただ釈迦仏法のみを探究することではない。大聖人の仏法の、はるかな未来を見つめての、壮大な挑戦なのです。
 仏法は深い。″言は意を尽くさず″と言うけれども、それでも語っていかねばならない。人々が大聖人の仏法を理解する機縁となり、広宣流布へ、人類の希望へとつながっていく論調にしたいのです。ある意味で一生の仕事だ。
 斉藤 はい。教学部の″魂″として取り組んでまいります。
2  女性の仏法者の活躍
 遠藤 読者からの声をうかがって、すごいなと思ったのは、婦人部、女子部の皆さんの求道心です。学ぶ心、研鑚の意欲。本当にすばらしいと思いました。
 池田 その通りだ。壮年部も男子部も、とてもかなわない(笑い)。純粋です。また粘り強い。とくに女性は、観念でなく実感でつかもうとされている。真剣に仏法を学び、語っていく功徳は、どれほど大きいか。その人は生々世々、舎利弗のような大学者の境涯になっていくにちがいない。
 須田 女性の仏法者の活躍に、こんな話があります。仏教が出現してから百年か二百年たったころ、シリア王の大使であったギリシャ人が、インドを訪れた。そして驚嘆したと言うのです。
 「インドには驚くべきことがある。そこには女性の哲学者(philosophoi)たちがいて、男性の哲学者たちに伍して、難解なことを堂々と論議している!」(『尼僧の告白』中村元訳〈岩波文庫〉の「あとがき」より)
 これを紹介している中村元博士は、さらに次のように指摘しています。「尼僧の教団の出現ということは、世界の思想史においても驚くべき事実である。当時のヨーロッパ、北アフリカ、西アジア、東アジアを通じて、〈尼僧の教団〉なるものは存在しなかった。仏教が初めてつくったのである」(同前)と。
 池田 哲学をもち、堂々と論議する女性たち──学会では、すでに常識だが(笑い)、当時の世界では、珍しかったのでしょう。
 斉藤 古代インドでは、女性の地位は奴隷と変わらないほど低かったそうです。そうしたなかで、釈尊が女性を入団させた事実は、革命的な行為であったとされています。
 遠藤 今年(一九九五年)は、北京で「世界女性会議」が開かれます。″女性にも、それぞれの分野の主体者として活躍する機会を″との声が、宗教の分野からも起こっています。
 たとえばキリスト教では、昨年初めて、英国で国教会の女性司祭が誕生しました。カトリックでも、修道女の地位向上への要求を受けて、論議が高まっています。
 池田 すべての民衆を救うために説かれた仏法です。女性と男性に差別はない。出家と在家の違い、人種・学歴あるいは権力、経済力など、どんな社会的立場も関係ない。当然のことです。
 仏法は、だれのために説かれたか──むしろ差別され、虐げられ、″最も苦しんだ″人々をこそ、″最も幸福に″輝かせていく。それが仏法の力であり、法華経の智慧ではないだろうか。
 遠藤 ″女性を差別しない″といえば、法華経を含めて大乗経典には、しばしば「善男子・善女人」という言葉が用いられています。これは元来、良家の男子・女子という意味で、在家の男女を示す言葉です。善女人を善男子と並んで重視したことは、大乗教団には、たくさんの女性信徒が活躍していたことを示しています。
 池田 そうだろうね。今の学会婦人部の姿を見ればうなずける。
 ただし、法華経の「善男子・善女人」は、いわゆる「出家に対する在家」という二分法的な考え方に立った在家ではなく、出家・在家という相対を超えたものではないだろうか。
 むしろ仏と同じ仏道、つまり人間自立の道、生命勝利の道を歩むことを「決意した人」、その意味で「善き人」という意味あいが強いのではないかと感じられる。「善」は″心根のよさ″をあらわしているのではないだろうか。
 斉藤 そうだと思います。とくに釈尊滅後における経典の受持・弘通を勧める個所では、常に「善男子・善女人」と呼び掛けられています。在家・出家を問わず、「決意した人」でなければ、滅後における法華経受持・弘通という難事を担うことはできません。
 池田 法華経そのものが、民衆に開かれた経典であった。それは、法華経の担い手たちが、民衆の中へ入って説いたからこそ生き続けたと言えるのだろう。
3  法華経はだれのための経典か
 斉藤 そこでここでは「法華経はだれのために説かれたのか」というテーマで、法華経が「民衆のための経典」であることを浮き彫りにしていきたいと思います。
 池田 法華経の本質を知る上で大変に重要なテーマです。日蓮大聖人も「観心本尊抄」や「法華取要抄」で論じておられる。
 遠藤 法華経で、釈尊が法を説いている直接の相手は、たとえば前半(迹門)の中心的部分である方便品(第二章)では声聞の舎利弗であり、後半(本門)の中心的部分である寿量品(第十六章)では弥勒菩薩です。
 しかし、重要なのは、そのような声聞や菩薩に対して説かれた法華経の教えが、全体として、だれのために説かれたのかということです。
 須田 大聖人は「法華取要抄」で、法華経は本門も迹門も″釈尊滅後の衆生のために″説かれたのであり、なかんずく″末法の衆生のため″であると結論されています。さらに、末法の中でも″大聖人御自身のために″説かれたと仰せです。
 池田 「釈尊滅後の衆生のため」「末法の衆生のため」。ここに「一切衆生のため」という法華経の慈悲がこめられている。
 法華経では「一切衆生の成仏」が仏の一大事因縁、すなわち、仏がこの世に出現した、最大で究極の目的であると説かれている。滅後の衆生、とくに末法という濁世の衆生を救わなけれぼ、その理想は叶えられない。だから滅後の衆生のための教えを仏が説かないはずがない。そのための慈悲の経典が法華経です。
 大聖人は法華経を身読され、すべての民衆を幸福にする法華経の秘法を、南無妙法蓮華経として顕し弘められた。だから、末法の中でも「大聖人御自身のために」法華経は説かれたと仰せなのです。
 釈迦の仏法が滅するとされる末法という時代に、一切衆生の幸福という法華経の理想を、どう実現するか──その道を開いたのは、日蓮大聖人であられる。
 このご自覚の上から、法華経は大聖人のために説かれたと仰せなのです。その意味で、法華経とは、大聖人が末法に御出現されることを「予言」した経典ということも可能となる。
 須田 滅後の衆生は関係ない、救わないというのでは無慈悲な仏になってしまいます。法華経の寿量品(第十六章)では明確に釈尊滅後の人類の救済について説いています。有名な「良医病子」の譬喩も、そのことを説いたものです。
 遠藤 こう説かれています。良医である父親が留守の時に、子どもたちが毒を飲み、地を転げ回って苦しんでいた。そこで良医は、良薬を調合して与えたが、毒が深くまわって本心を失った子どもたちは飲もうとしなかった。
 そこで良医は、その子どもたちを救うために一計を案じ、良薬を置き残して旅立ちます。そして旅先から使いをやって「父は死んだ」と伝えます。その悲しみのあまり、子どもたちは正気を取り戻し、良薬を飲んで救われるのです。
 良医は仏、良医が旅立つのは仏の入滅を意味します。また、子どもたちは末法の衆生であり、良薬とは南無妙法蓮華経であり、使いとは地涌の菩薩であると大聖人は教えられています。つまり、仏の入滅後の衆生を救う良薬である南無妙法蓮華経が、寿量品に説かれているのです。
 池田 仏とはみずからの生命の真実を悟った人である。それは、とりもなおさず、あらゆる人の生命の真実を悟ったことでもあった。それが仏の智慧であり、法華経の智慧です。
 その意味で、法華経がだれのために説かれたのかといえば、「すべての人間のため」であり、その「自立」のためです。そこには当然、僧俗、男女、貧富、貴賎、老若等、いかなる差別もありません。ひとえに「人間のため」「民衆のため」です。
 斉藤 「釈尊の伝道宣言」と呼ばれるある経文に「人々の幸福のために、利益のために、安楽のために」(『律蔵』大品、趣意)という釈尊の言葉があります。
 サンスクリット(古代インドの文章語。梵語)の法華経では、仏の「一大事因縁」を明かすところで、全く同じ言葉が何個所も出てきます。簡素を好む羅什三蔵の漢訳では「饒益する所多く衆生を安楽ならしめたもう」(法華経一二三ページ)という一句にまとめられています。つまり、法華経は、すべての人々の真の幸福と安楽のために説かれたのである、と。
 池田 大聖人は「南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」と仰せられている。
 だれもが等しく、成仏の可能性をもっている。だれもが必ず、絶対の幸福境涯を満喫していける──これが法華経の教えなのです。

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