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日蓮大聖人・池田大作

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序論 「哲学不在の時代」を超えて  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  斉藤 「法華経の智慧──二十一世紀の宗教を語る」と題して、池田先生に、多角的に語っていただくことになりました。法華経が現代に送る光、豊かな智慧の大海を、私たちも学んでまいりたいと思います。
 とくに、この内容は、新入会の方々や、海外のメンバーも含めて、仏法に関する理解を深めていただけるものになればと願っております。よろしく、お願いいたします。
 池田 こちらこそ、よろしく。
 いよいよ、本格的に「二十一世紀の宗教」を語るべき時代に入りました。今、人類は共産主義崩壊、哲学不在の時代の彼方の山に目を向けながら、新しい大哲学を求めている。
 つまり、精神の空虚を充実で満たしてくれる何かを求めている。疲れた生命を、はつらつと希望に蘇らせてくれる何かを求めています。
 自分が、また社会が「どこへ」「何のために」進めばよいのか。それを教えてくれる智慧を求めている。
 あるいは、戦乱の旧ユーゴ諸国で。
 あるいは、飽食の先進国の社会で。
 あるいは、混乱の旧・社会主義国で。
 あるいは、貧困と戦う第三世界で。
 「経済の成長」を至上命令にしてきた現代にあって、より大切なのは、「『人間』が根本」、つまり「人間の成長」ではないのかと気づき始めています。
 「知識の飛躍的増加」が進む情報社会にあって、知識を使いこなすための「智慧の飛躍的増大」が、至急になされなければならないと理解されつつある。
 何かが間違っている。何かが必要だ。科学でも幸福はない。社会主義でも資本主義でも救われない。どんなに会議を開いても、道徳を訴えても、心理学を講じ、哲学を論じても、何かが欠けている。
 今、人類の心の情景は、このようなものではないでしょうか。
 『星の王子さま』で知られるサン=テグジュペリは言っています。
 「われわれがどこかで道をあやまったということを理解しなければいけない。人間全体は以前よりも豊かになっている。よりおおくの富と時間を享受している。だがしかし、うまく規定できぬ本質的ななにものかが欠けているのだ。自分を人間として感じることがしだいに稀になっていく。われわれの神秘的な大権のうち、なにかがなくなってしまったのだ」(『人生に意味を』、渡辺一民訳、みすず書房)
 人間は「道をあやまった」というのだ。
 人間は「どこへ」「何のために」──。
 法華経の従地涌出品(第十五章)では、無数の地涌の菩薩が大地から涌出してきたときに、弥勒菩薩が質問します。
 「是れ何れの所より来れる 何の因縁を以ってか集れる」(法華経四五八ページ)
 その場にいた人々の疑問を代表した質問ですが、地涌の菩薩は「どこから」「何ゆえに」集まって来たのかと聞いたのです。
 斉藤 その問いについて、釈尊は″よくぞ、このような「大事」を問うた″と弥勒をたたえています。そして、この問いへの答えとして、如来寿量品(第十六章)という法華経の最重要の法門が説かれています。
 池田 本当に重要な問いです。その法門上の深義は、いずれ論ずるとして、敷衍していえば、人間は「どこから」、そして「何のために」この世に生まれたのか、という問いにも通じるのではないだろうか。
2  「生きる意味」を教える経典
 遠藤 池田先生が、学会の座談会に初めて出席された時の模様が、小説『人間革命』には描かれていますが、戸田先生(戸田城聖創価学会第二代会長)の前で詠まれた即興詩(「地涌」)を思い出します。そこには
  旅びとよ
  いづこより来り
  いづこへ往かんとするか
  月は沈みぬ
  日 いまだ昇らず
  夜明け前の混沌カオス
  光 もとめて
  われ 進みゆく
  心の 暗雲をはらわんと
  嵐に動かぬ大樹を求めて
  われ 地より湧き出でんとするか(本全集第39巻所収)
 とあります。
 池田 戦後の動乱期を生きる青年として、人生の意義を、私は切実に求めていた。
 そして私は、戸田先生と出会い、軍国主義に反対して投獄された人物ならば信用できる、と直感したのです。
 戸田先生との出会いが、私にとっての法華経との出合いになりました。
 人は「どこから」そして「どこへ」「何のために」──この問いに答えることこそ、人間としての、一切の営みの出発点となるはずです。
 須田 それに明快に答える思想・哲学・宗教は、どこにあるのか──これが課題ですね。社会が戦争で「焦土」であっても、心に「哲学」が生きていれば、未来は明るい。それを池田先生は証明されたと、私には思えます。
 斉藤 それが法華経の哲理でもありますね。
 須田 しかし、社会が豊かであっても、心が「焦土」であっては、未来は暗い──。
 池田 その通りだ。それで思い出したのだが、現代人の心象を「心のなかが爆撃を受けた」と表現した人がいます。ナチスの強制収容所の体験で有名なフランクル博士てす。
 遠藤 『夜と霧』(原題「強制収容所における一心理学者の体験」)の著者として高名ですね。
 池田 博士は「現代は、あらゆる熱情が乱用されたあげく、ありとあらゆる理想主義が打ち砕かれた時代なのです。じつさい、ほんとうなら、若い世代に最も理想主義と熱情を求めなければならないのに、こんにちの世代、こんにちの青年には、もはやどのような理想像もないのです」と語られています。(『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社)
 「生きる意味」を失ってしまった、というのだ。
 遠藤 強制収容所は、それこそ「人間の尊厳」も「生きる意味」も破壊し尽くされるような環境であった。それでも、「人間」として生き抜いた人もいたのですが、──。博士は、平和の時代になっても、別の意味で、目に見えない強制収容所が人類を取り巻いているのではないかと、示唆されているのでしょうか。
 池田 そうとも言えるだろう。また、現代を支配している気分を一口で言うと、それは「無力感」だと言った人もいる。
 ともあれ、だれもが、このままではいけないと思っている。しかし、政治も経済も環境の問題も、すべて自分の手の届かないところで決定され、動かされている。自分一人が何かしたところで、大きな機構の前に何ができようか──この「無力感」が、さらに事態を悪化させる悪循環をもたらしているのです。
 この無力感の対極にあるのが、法華経の一念三千の哲学であり、実践なのです。一人の人間の「一念」が一切を変えていくというのですから、一人の人間の可能性と尊貴さを、極限まで教えた思想とも言えるでしょう。
 斉藤 人間は、無力で哀れな存在ではないことを強調しなければなりません。池田先生と親交のあるロシアのヤコブレフ氏は「ペレストロイカの設計者」と言われる方ですが、「ロシアに明日はあるか」を展望されて、こう言われています。
 「今日、最もクールな科学的合理主義ですらも、人間一人一人の価値を認めない限り、人類そのものが破滅するということをわれわれに教えている」(『歴史の幻影』、月出皎司訳、日本経済新聞社)と。
 池田 ヤコブレフ氏とは、一九九四年も、モスクワでお会いしました。
 (レオナルド・クラブ会長のヤコブレフ氏tお九四年五月の「レオナルド国際賞」の受賞式で会見。氏は「池田博士! 我が国も、池田博士の行動に見習って、人道的な、また″社会に尽くしていこう″とする広範な動きが、そのような人々が登場してきています」とあいさつした)
 氏は、真剣に「ロシアのルネサンス」を求めておられる。その核心にあるのは、「人間的価値の復権」です。
 「二〇世紀の残りの数年は、われわれが一九世紀半ば以来知っている共産主義の幻想が完璧に破綻する時になるだろう。そうなるに違いない。と同時に、この数年間に、本当の人間的価値の復権が起こるだろう。人間的価値は、これまで『社会的実践』の結果として、誤解、嘘、中傷によって圧倒され尽くしてきたが、やっとそれから解き放たれる時がきたのだ。
 現在と未来に考えをめぐらせば、今日ぶつかっている危機のなかで最大のものは精神的理想の分野にあるという結論に達するに違いない」(同前)と。
 斉藤 この「人間的価値」を、最も壮大にして崇高に、うたいあげたのが法華経と言えますね。
 池田 そうです。それが私どもの確信です。
3  「人間のための宗教」の復権
 池田 かつて神聖ローマ帝国時代に「大空位時代」(一二五四年または五六年〜七三年)があった。皇帝が実質的に空位だった時代です。ちょうど日蓮大聖人の御在世(一二二二年〜八二年)当時に当たる。
 冷戦後の今は、「哲学の大空位時代」ともいえる。指導的哲学がなくなってしまった。ゆえに、今こそ私は、古来「経の王」といわれる法華経を語りたいのです。
 遠藤 「諸経の王」「諸経の皇帝」ですね。「大空位時代」は、まさに現実だと思います。共産主義への信仰はなくなりましたが、かといって「自由」が人を幸福にしているのかは疑問です。
 かえって拝金主義、物質主義、快楽主義といった風潮が、全世界的に広まってしまったといえるかもしれません。
 須田 同感です。池田先生が会見されたチェコのハベル大統領は、共産主義の抑圧と戦った勇士として有名ですが、その後の社会の変化に、警告を発しています。
 「われわれは異様な事態の目撃者となった。なるほど社会は自由を手に入れた。だが、ある意味で、社会は鎖に繋がれていたときより堕落している」(アンドルー・ナゴースキー『新しい東欧』、工藤幸雄監訳〈共同通信社〉の中で紹介)と。
 そして「道義的にタガの緩んだ社会に自由が取り戻されると、(中略)思いつく限りのあらゆる悪徳が、目も眩むばかりにどうと噴き出した」(同前)と言っています。
 斉藤 極端なナショナリズムも、その一つですね。「統合ドイツ」でも、ネオナチズム(第二次大戦後、ナチズムを再興しようとする運動)のような動きは、ごく一部にしても、民族的な「排除」の声が高まっているようです。
 「ベルリンの壁」を、今度はドイツ全土を包囲するように、再び建設すべきだという主張さえ聞かれる昨今です。
 池田 その通りである。民族主義の問題は、根が深い。民族主義をあおって、政治的、経済的、宗教的に利用しようという動きが絶えないし、何より人間の「心」の欲求に関わっているから、その深刻さは当然なことだ。
 つまり、自分は「どこから来て」「どこへ行くのか」というアイデンティティー(自己を支える帰属意識)への欲求が、民族主義の根っこにはあると考えられる。
 思想、哲学が空白状態であるから、アイデンティティーを民族に求める。思想の″真空″には耐えられないからです。だからこそ宗教が大切なのですが、宗教がむしろ「分断」を助長しているのが実情ともなっている。
 遠藤 国連の明石康氏は、旧ユーゴスラビア紛争の解決に当たっている担当者(旧ユーゴ問題担当国連事務総長特別代表)ですが、ある宗教者会議で、こう語られています。
 「旧ユーゴでは、宗教は偏狭な民族主義者に誤用、乱用されている。宗教者がしっかりしていて、こうなる前に立ち上がっていたら、それは避けられたろう」(「東京新聞」一九九四年十一月十七日付)と。
 池田 明石氏は大切な友人です。旧ユーゴの戦乱は、本当に悲惨だ。現地の人々を思うと、胸もつぶれる思いです。まさに「この世の地獄」となっている。ある文学者に、ボスニアの詩人は言ったという。「今日のサラエヴォで書くことができるのは死亡記事だけだ」(フアン・ゴイティソーロ『サラエヴォ・ノート』、山道佳子訳、みすず書房)と。
 斉藤 同じキリスト教系の進行ゆえに、歴史的にも激しく憎悪・対立してきたという背景も考えられます。
 それを象徴する例として、真偽はともかく、現地で伝えられている情報があります。サラエヴォに取材に行って見聞した生々しいエピソードですが。
 「カトリックを信仰するクロアチアの兵士が、正教徒であるセルビア側の捕虜になると、正教流に三本指で十字を切るように強制され、拒否すると、三本でしか十字を切れないように指に針金を入れられたりすることもあるそうだ」(堅達京子・稲川英二『失われた思春期』径書房)
 須田 カトリックでは、十字を切るさい二本指で行うようです。
 斉藤 ええ。その捕虜が三本指にされた写真を、クロアチア側の新聞が大きく報道します。それを見た人は当然、セルビア側へのさらなる憎悪をつのらせるわけです。(同前)
 池田 宗教は、使い方によっては″悪魔″となる。人々を結びつけるべき宗教が、利用され、かえって分断を煽っている。これほどの不幸はない。
 どこまでも「人間のための宗教」が根本とならねばならない。「宗教のための人間」では絶対にない。「二十一世紀の宗教」の、これは根本原則です。
 遠藤 モスクワ大学前総長のログノフ博士は、池田先生に学んだこととして、「人間のための社会」であって「社会のための人間」ではないという信念をあげておられます。かつてのソビエト社会で、これは衝撃的な思想であった、と。まさに「人間的価値の復権」です。
 池田 これが法華経の法理だ。これが仏法の人間主義なのです。
 サラエヴォからのリポート(『失われた思春期』)は私も目にしましたが、戦乱によって「思春期」が奪われた子どもたちの、悲痛な叫びが伝えられている。
 サラエヴォのある少女は、戦争が始まってから一年半、家から出ることもできず、爆撃が続くなか、自分の部屋でさえ危険で入れなかったという。トイレと廊下が比較的安全なので、そこで一ヵ月も暮らした。水もない。電気もない。周りは爆撃でバラバラになった人体が吹きとび、冬はマイナス十七度のなかで薪もストーブもない。コップの水も凍っている。手も顔も洗えない。水くみ場にいくと狙撃される危険がある……。
 また、同じような状況のなかで、ある十七歳の少年は語っています。
 「ぼくにはいろんな夢があったけど、戦争がすべてを奪ってしまった」「でも、いつになるかわからないけれど、今後、人を愛せるのなら、そういう能力がまだ残っているのなら、誰かを愛したいと思う。一番大切なことは、何が起ころうとも『人間』でいることだ。『人間』であり続けることだ……」(同前)
 二十一世紀といっても、「平和」が大前提です。平和なしには、一切が不毛です。ゆえに二十一世紀の宗教は、平和を生み出す宗教でなければならない。
 そして「平和学の父」ガルトゥング博士が結論されたように、仏教こそ最も平和的な宗教なのです。その仏教の骨髄が法華経です。
 遠藤 「何が起ころうとも『人間』でいることだ」という叫びは、状況が状況だけに、切実に胸に迫ってきますね。
 日本は一見、平和ですが、はたして「『人間』であり続けること」ができているのかどうか、大いなる疑問を持つのは、私一人ではないと思います。
 池田 そうだね。だからこそ、いずこであれ、「一人の人間」の蘇生から出発することが必要となる。それが「人間革命を通しての社会革命・地球革命」です。その法理が、法華経です。その行動が、法華経の智慧と言いたい。

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