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日蓮大聖人・池田大作

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第31巻 「誓願(続)」 誓願(続)

小説「新・人間革命」

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1  誓願(続)(1)
 一九九三年(平成五年)を、学会は「創価ルネサンス・勝利の年」と定めた。
 山本伸一は一月下旬から、約二カ月にわたって、北・南米を訪問した。
 アメリカでは、カリフォルニア州にある名門クレアモント・マッケナ大学で「新しき統合原理を求めて」と題して特別講演した。
 伸一は、世界の新たな統合原理を求めるにあたって、人間の「全人性」の復権がカギを握ると述べ、そのために「寛容と非暴力の『漸進主義』」「開かれた対話」の必要性などをあげ、仏法で説く、仏界、菩薩界に言及した。
 講演の講評を行ったのは、ノーベル化学賞・平和賞受賞者のライナス・ポーリング博士であった。博士は、「講演で示された菩薩の精神こそ、人類を幸福にするもの」と評価し、「私たちには、創価学会があります」と高らかに宣言してくれた。
 さらに、創価大学ロサンゼルス分校では、“人権の母”ローザ・パークスと会談した。
 ――五五年(昭和三十年)、アフリカ系アメリカ人の彼女は、バスの座席まで差別されることに毅然と抗議した。それが、バス・ボイコット運動の起点となり、差別撤廃が勝ち取られていったのである。
 伸一は青年たちと、その人権闘争を讃え、「“人類の宝”“世界の母”ようこそ!」と歓迎した。まもなく迎える彼女の八十歳の誕生日を、峯子が用意したケーキでお祝いもした。
 人間愛の心と心が響き合う語らいのなかで、彼女は、『写真は語る』という本が出版されることに触れた。著名人が、人生に最も影響を与えた写真を一枚ずつ選んで、載せる企画であるという。自分が、その一人に選ばれたことを伝え、こう語った。
 「あのバス・ボイコット運動の際の写真を選ぼうと思っていました。しかし、考えを変えました。会長との出会いこそ、私の人生にいちばん大きい影響を及ぼす出来事になるだろうと。世界平和のために、会長と共に旅立ちたいのです。もし、よろしければ、今日の会長との写真を、本に載せたいのですが」
2  誓願(続)(2)
 山本伸一は、“掲載される写真を、自分との語らいの場面にしたい”という、ローザ・パークスの要請に恐縮した。
 後日、出版された写真集が届けられた。彼女の言葉通り、伸一と握手を交わした写真が掲載されていた。「人権運動の母」の、優しく美しい笑顔が光っている。
 冒頭には、こう書かれていた。
 「この写真は未来について語っています。わが人生において、これ以上、重要な瞬間を考えることはできません」。そして、文化の相違があっても、人間は共に進むことができ、この出会いは、「世界平和のための新たな一歩なのです」と――。
   
 伸一は、このアメリカ訪問で、ロサンゼルスにある「寛容の博物館」を訪れている。
 同博物館では、世界各地での人権抑圧や、人類史上最大の残虐行為であるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の歴史に焦点を当てて、展示が行われていた。館内を見学し、ユダヤの人びとの、受難の過酷さに触れた彼は、同博物館の関係者たちに語った。
 「私は、貴博物館を見学し、『感動』しました! いな、それ以上に『激怒』しました! いな、それ以上に、『このような悲劇を、いかなる国、いかなる時代においても、断じて繰り返してはならない』と、未来への深い『決意』をいたしました」
 民族、思想、宗教等の違いによる差別や抑圧。そして、それをよしとしてしまう人間の心――そこに生命に潜む魔性がある。その魔性と戦っていくことこそ、仏法者の使命にほかならない。
 初代会長・牧口常三郎は、戦時中、戦争遂行のために思想統制を進める軍部政府の弾圧と戦い、獄死した。共に投獄された第二代会長・戸田城聖は、戦後、「地球民族主義」の理念を掲げ立った。この師弟の行動は、人間を分断する、あらゆる「非寛容性」に対する闘争であった。広宣流布とは、人権のための連帯を築き、広げていくことでもある。
3  誓願(続)(3)
 二月六日、山本伸一は、アメリカのマイアミから、コロンビア共和国へ向かった。セサル・ガビリア・トルヒーヨ大統領並びに文化庁の招聘によるもので、コロンビアは、初めての訪問である。大統領は、一九九〇年(平成二年)八月、同国最年少の四十三歳で就任し、テロ撲滅、麻薬組織の取り締まりに力を注いできた。
 伸一の一行がマイアミを発つ前、コロンビアの首都のサンタフェ・デ・ボゴタ市(後のボゴタ市)の繁華街で、車に仕掛けられた爆弾が爆発し、市民が吹き飛ばされるという事件が起こった。当時、麻薬組織によるテロ事件が相次いでいたのである。国内には非常事態宣言が出されていた。
 コロンビアで伸一は、東京富士美術館所蔵の「日本美術の名宝展」の開幕式などに出席することになっていた。三年前に日本で開催された「コロンビア大黄金展」(東京富士美術館主催)の答礼の意味も込められていた。
 大統領府から伸一に、訪問についての問い合わせがあった。彼は、言下に答えた。
 「私のことなら、心配はいりません。予定通り、貴国を訪問させていただきます。
 私は、最も勇敢なるコロンビア国民の一人として行動してまいります」
 それは、伸一の“誓い”であったのだ。
 四年前、来日したビルヒリオ・バルコ大統領(当時)から、同国の「功労大十字勲章」が贈られた折、伸一は、こう述べている。
 「私どもも“同国民”との思いで、貴国のために貢献していきたいと念願しています」
 彼は、たとえ何があろうとも、信義には、どこまでも信義をもって応えたかった。それが友情の道であり、人間の道であるからだ。
 コロンビア到着の翌七日、支部が結成され、伸一はメンバーと記念撮影し、激励した。
 八日には、大統領府のナリーニョ宮殿にガビリア大統領夫妻を表敬訪問した。この時、彼は、大統領に長編詩を贈り、若き偉大なるリーダーの勇気と行動を讃え、コロンビアの前途に「栄光あれ!」とエールを送った。

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