Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第30巻 「暁鐘」 暁鐘

小説「新・人間革命」

前後
1  暁鐘(1)
 ドイツは、ヨーロッパの歴史を画した宗教改革の発祥の地である。
 十六世紀初め、聖職者の腐敗、教義の形骸化、教会の世俗化が進むなかで、ローマ教皇は、ドイツでの贖宥状(免罪符)の販売を許す。贖宥状を買えば、犯した罪の罰は赦免されると宣伝され、売られていったのである。
 修道士のマルチン・ルターは、それに疑義をいだいた。救いは、どこまでも信仰によるものだ。彼は、「九十五箇条の論題(意見書)」を発表し、敢然と抗議の声をあげた。これが、宗教改革の新たな発火点となっていくのである。
 ルターは、ローマ教皇から破門されるが、信念を貫く。根本とすべきは聖書であるとし、自ら聖書のドイツ語訳も行っていった。そして、万人祭司主義の立場を取り、神のもとに人間は平等であると訴えたのである。
 山本伸一は、決意を新たにしていた。
 “ルターの宗教改革から四百数十年。今、二十一世紀を前に、全人類を救い得る、人間のための宗教が興隆しなければならない”
 一九八一年(昭和五十六年)五月十六日午後八時半(現地時間)、伸一は欧州広布に思いをめぐらしながら、フランクフルトの空港に降り立った。彼の西ドイツ(当時)訪問は、十六年ぶりであった。
 翌十七日、宿舎のホテルに、ボン大学名誉教授のゲルハルト・オルショビー博士、ヨーゼフ・デルボラフ博士夫妻、また、ベルリン自由大学教授のナジール・A・カーン博士の訪問を受けた。オルショビーは環境保全問題の研究で知られ、デルボラフは教育学、ギリシャ哲学の第一人者である。カーンはインド出身で宗教への造詣も深く、耳鼻咽喉科の権威である。皆、伸一とは旧知の間柄であり、再会を喜び合った。
 人間を脅かす諸問題は、今や複雑に絡み合い、種々の領域に及んでいる。ゆえに伸一は世界の知性との交流を深め、人類の平和と繁栄のために英知のネットワークを広げ、時代建設の新潮流を創ろうとしていたのである。
2  暁鐘(2)
 山本伸一は、フランクフルトでの識者との語らいのなかで、デルボラフ博士とは対談集を発刊していくことで合意した。
 以後、二人は六年がかりで対話を進め、対談集の原稿がまとまった時、博士は、その原稿を、「嬉しくて、いとおしくてたまらない」と言って、枕元に置いていたという。
 一九八九年(平成元年)四月、対談集『二十一世紀への人間と哲学――新しい人間像を求めて』が発刊された。しかし、博士は、その出版を待たず、八七年(昭和六十二年)七月に死去する。享年七十五歳であった。
 伸一は、その後も各界の識者と対話を重ね、対談集の出版に力を注いでいった。実は、そこには秘められた決意があった。
 ――あらゆる学問も、政治も、経済も、教育も、芸術も、その志向するところは、人間の幸福であり、社会の平和と繁栄である。
 日蓮大聖人は、天台大師の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」の文を引かれ、世を治め、人間の生活を支える営みは、仏法と違背せず、すべて合致していくことを訴えられている。
 その厳たる事実を、識者との語らいを通して、明らかにしておきたかったのである。
 さらに、環境問題や教育、核、戦争、差別、貧困等々、人類のかかえる諸問題の根本的な解決のためには、人間自身の変革が求められる。そこに、最高峰の生命哲理たる日蓮仏法を弘め、時代精神としていく必然性があることを示しておきたかった。また、意見交換を通して、その識見と知恵から学びつつ、問題解決に向けての視座と実践の方途を、探求していきたかったのである。
 “対談を通して、諸問題解決の具体的な道筋を示せることは、極めて限られているかもしれない。しかし、自分が端緒を開くことによって、多くの青年たちが後に続いて、人類の未来に光を投じてくれるであろう”というのが、彼の願望であり、期待であった。
 思想と哲学とを残すことは、未来を照らす灯台の明かりをともすことだ。
3  暁鐘(3)
 木々の緑を縫い、さわやかな薫風が吹き抜けていく。五月十七日午後、山本伸一が出席し、フランクフルト市内のホテルの庭で、ドイツ広布二十周年を記念する交歓会が行われた。これには、オランダ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、オーストリア、イタリア、そして日本から訪独中の親善交流団も含め、八カ国約八百人が集って、世界広布への誓いを固め合った。
 庭には、ステージが特設され、日本から世界広布の大志をいだいて渡独し、炭鉱で働きながらドイツ広布の道を切り開いてきた青年たちの苦闘などが、ミュージカル風に紹介された。彼らのなかには、初めて炭鉱での労働を経験した人が多くいた。肉体を酷使し、疲れ果て、食事の黒パンも喉を通らぬなかで、自らを叱咤して学会活動に励んだ。
 彼らの胸に、こだましていたものは、伸一が一九六三年(昭和三十八年)の『大白蓮華』八月号の巻頭言に綴った、「青年よ世界の指導者たれ」との万感の呼びかけであった。
 この青年たちをはじめ、草創期を築いた勇者たちの行動と努力が実り、ドイツにも数多の地涌の菩薩が誕生したのだ。「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」(「青年訓」(『戸田城聖全集1』所収)聖教新聞社)とは、戸田城聖の大確信であった。
 ステージでは、後継の少年少女が登場し、希望の五月を迎えた喜びの歌を合唱。大喝采を浴びた。
 登壇したドイツ理事長のディーター・カーンは、感極まった顔で語った。
 「十六年間の夢が、遂に、遂に、実現しました。山本先生が、こうして、わがドイツにいらしてくださったのです!」
 彼らは、日本で宗門僧らの学会への不当な仕打ちが続いてきたことを伝え聞いていた。「それならドイツの私たちが広宣流布を加速させ、世界広布の新天地を開こうじゃないか!」と、果敢に活動を展開してきたのだ。
 ドイツの大詩人ゲーテは、「合い言葉は戦い 次の言葉は勝利!」(ヨハーン・ヴォルフガング・ゲーテ著『ファウスト第二部』池内紀訳、集英社)と詠っている。それは、まさに皆の心意気であった。

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