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日蓮大聖人・池田大作

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第29巻 「清新」 清新

小説「新・人間革命」

前後
1  清新(1)
 前進の活力は、希望から生まれる。
 希望の虹は、歓喜ある心に広がる。
 山本伸一は、学会が「人材育成の年」と定めた一九七九年(昭和五十四年) 元日付の「聖教新聞」に、「希望の暁鐘」と題する一文を寄稿した。
 「御書にいわく『所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり』と。またいわく『歓喜とは善悪共に歓喜なり』。またいわく『歓喜踊躍』と。
 すなわち、苦しみや悲しみさえ、希望と喜びに変えゆくのが、仏法の偉大な功力なのであります。苦楽は所詮一如であり、むしろ苦難の中にこそ希望と歓喜を見いだしていける人が、厳たる人生の勝利者なのであります」
 この一九七九年は、いよいよ「七つの鐘」の総仕上げの年となる。学会は一九三〇年(同五年)の創立を起点に、七年ごとに前進の節を刻んできた。以来四十九年、目標としてきた第七の鐘が鳴り終わり、さらに新しい出発を期す時が来たのだ。
 伸一は、その清新の出発にあたり、強盛なる信心の力によって、無限の「希望」と「歓喜」とを胸中にみなぎらせ、不撓不屈の大前進を開始するよう呼びかけたのである。
 元日、彼は、東京・信濃町の学会本部で行われた新年勤行会に出席した。
 そして、「七つの鐘」終了の本年を、再び広宣流布への偉大なる起点にしたいとし、力を込めて訴えた。
 「長い広宣流布の道程にあっては、幾多の苦渋の嵐を受けるのは、御書に照らして当然の理なのであります。
 しかし、私どもには信心がある。信心とは勇気であります。幾多の大偉業も、すべて、この勇気という一点から実現したことを決して忘れてはならない。
 勇気のなかに真実の信仰があり、無限の希望と成長があり、時代の変革と新世紀への前進があるのであります」
 勇気は、人間を人間たらしめる力である。勇気なくしては、正義も、勝利もない。
2  清新(2)
 この一九七九年(昭和五十四年)も、山本伸一の果敢な執筆活動はとどまることを知らなかった。
 月刊婦人雑誌の一月号では、『婦人倶楽部』(講談社)に「私が出会った素晴らしき女性たち」を、『婦人生活』(婦人生活社)に「若い母へ贈る」を、『主婦の友』(主婦の友社)に「中国印象記」を、『主婦と生活』(主婦と生活社)に「信じ合える親子であるために」を寄稿。また、『週刊東洋経済』(東洋経済新報社)の新春特大号の「新春随想」では、「心の容量」と題して、仏法で説く人間生命の尊さについて言及していった。
 一月九日、伸一の姿は、厳冬の東北・宮城県仙台市の東北平和会館(後の青葉平和会館)にあった。
 この厳寒の季節に、彼が東北へ行くことについては、妻の峯子も、首脳幹部たちも憂慮していた。体調は決して良好とはいえなかったからだ。しかし、寒冷の地には、最も寒い季節に行かなければ、人びとの苦労も、気持ちもわからない。また、宗門の問題で辛い思いをしてきた人たちと、より早く会って、励まさなければならないと、彼は思っていた。
 広宣流布の熾烈な攻防戦においては、体を張って戦わなければならない時もある。
 新年の出発にあたり、一月五日に新人事が発表され、これまで東北総合長を務めてきた副会長の青田進が東海道総合長になった。そして、東北長であった利根角治が東北本部長に、さらに関東長を務めてきた山中暉男が東北長に就任したのである。
 九日、伸一は、東北平和会館で代表との懇親会や宮城県臨時代表幹部会に出席。
 十日には、同県の新年記念幹部会に臨んだ。
 席上、宮城県に「町村地域指導長」制の設置が決定をみた。これは、地域こそが広宣流布の本舞台であるとの認識に立ち、各町村の特色に合わせて、広布の運動を展開していくための態勢である。一人ひとりが生活の場である地域に深く根差してこそ、広宣流布の堅固な基盤をつくり上げることができる。
3  清新(3)
 山本伸一は、この一九七九年(昭和五十四年)の『大白蓮華』二月号に、「『地方の時代』と広宣流布」と題する巻頭言を書いた。
 そのなかで彼は、「国をるべし・国に随つて人の心不定なり……されば法は必ず国をかんがみて弘むべし」の御文や、「桜梅桃李」の原理を紹介し、人それぞれに個性があるように、それぞれの地方にも特色があり、東北には東北の特色があることを述べた。
 そして、法を弘めるうえでは、各地域の生活様式や文化的伝統をふまえて、押しつけではなく、生命を内より薫発していくことが肝要であると強調した。
 さらに、「『地方の時代』といっても、結局は、その地域を支えゆく一人ひとりの人間である」として、皆が主体性と愛着と誇りをもち、郷土の繁栄のために、着実な努力を重ねていくことの大切さを訴えた。
 「町村地域指導長」制は、これらをふまえて、それぞれの地域の広宣流布を推進する布陣であった。
 また伸一は、自らの決意を、次のように綴っている。
 「本年もまた、私は、日本列島の各地方をあまねくまわりたい。また、広くは世界の国々の友の激励にも走りたい」
 そして、年頭から、真っ先に東北へ飛んだのである。
 十日、東北平和会館で伸一は、宮城未来会第一期の結成式に先立ち、メンバーと記念撮影をした。
 彼は、どの地方を訪れた時も、いかに多忙を極めていようが、未来部の代表との出会いをつくり、励ますように心がけてきた。未来は、若い世代に託す以外にないからである。
 中国の英知の言葉には、次のようにある。
 「一年の計は、穀を樹うるに如くは莫く、十年の計は、木を樹うるに如くは莫く、終身の計は、人を樹うるに如くは莫し」(遠藤哲夫著『新釈漢文大系第42巻 管子(上)』明治書院)
 伸一は、後継の育成に必死であった。わが生命を削り与える思いで激励にあたった。

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