Nichiren・Ikeda
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1 革心(1)
歴史は動く。時代は変わる。
それを成し遂げていくのは、人間の一念であり、行動である。
一九七八年(昭和五十三年)八月十二日、日本と中国の間で「日中平和友好条約」が調印され、今、「日中新時代」の幕が開かれようとしていた。
九月十一日午後零時半(現地時間)、中日友好協会の招聘を受けた、山本伸一を団長とする第四次訪中団二十二人は、上海虹橋国際空港に到着した。
伸一の訪中は、三年五カ月ぶりである。
タラップに立つと、さわやかな風が〓をなでた。秋の気配を感じさせる風であった。
彼方に見える、木々の深緑がまばゆかった。
伸一がタラップを下りると、中日友好協会の孫平化秘書長らの笑顔が迎えてくれた。
「山本先生! ようこそ! ようこそ、おいでくださいました」
孫秘書長の差し出した手を、伸一は、ぎゅっと握り締めながら言った。
「お招きいただき、ありがとうございます。わざわざお出迎えいただき、恐縮です」
「私も三十分ほど前に北京から到着したばかりなんです」
孫平化は、第一次訪中以来、誼を結ぶ、既に「老朋友」(古くからの友人)である。
このころ、日中間の友好ムードは急速に高まり、それにともない、中日友好協会の秘書長である彼は、多忙を極めていたにちがいない。
そのなかを、上海まで来てくれたのである。伸一は、その信義に応える意味からも、今回の訪中を、日中間にとって実りあるものにしていかなければならないと思った。
訪中団一行は、中国側が用意してくれた十六台の車に分乗し、宿舎となる錦江飯店に向かった。人びとが行き交う街路を見ながら、伸一は思った。
「あの日中国交正常化提言から、ちょうど十年か……。歴史の歯車は、大きく回り始めた。社会制度は違っても平和を願う同じ人間同士である。必ず万代の友好を築くのだ」
2 革心(2)
山本伸一は、十年の来し方を振り返った。
一九六八年(昭和四十三年)九月八日、東京・両国の日大講堂で行われた、第十一回学生部総会の席上、伸一は、日中問題について言及し、問題解決への方途として、三点を訴えたのである。
第一に、中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること。
第二に、中国の国連における正当な地位を回復すること。
第三に、日中の経済的・文化的な交流を推進すること。
そして、こう呼びかけた。
「諸君が、社会の中核となった時には、日本の青年も、中国の青年も、ともに手を取り合って、明るい世界の建設に、笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない。
この日本、中国を軸として、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合い、守り合っていくようになった時こそ、今日のアジアを覆う戦争の残虐と貧困の暗雲が吹き払われ、希望と幸せの陽光が燦々と降り注ぐ時代である──と、私は言いたいのであります」
この提言に、大反響が広がった。
日中友好を真摯に願ってきた人たちは、諸手を挙げて賛同したが、同時に、その何倍もの、激しい非難中傷の集中砲火を浴びた。
学生部総会三日後の日米安全保障会議の席でも、外務省の高官が、強い不満の意を表明している。
しかし、提言は、すべてを覚悟のうえでのことであった。冷戦下の、不信と憎悪で硬直した時代の岩盤を穿ち、アジアの、世界の未来を開くべきだというのだ。命の危険にさらされて当然であろう。
命を懸ける覚悟なくして、信念は貫けない。
伸一は、さらに、翌六九年(同四十四年)の六月、「聖教新聞」に連載していた小説『人間革命』の第五巻で、こう訴えた。
──日本は、自ら地球上のあらゆる国々と平和と友好の条約を結ぶべきであり、「まず、中華人民共和国との平和友好条約の締結を最優先すべき」である。
3 革心(3)
山本伸一が提言した、日中国交正常化、「日中平和友好条約」の締結に、中国の周恩来総理は注目した。
また、代議士を務め、日中両国の関係改善に生涯を懸けてきた松村謙三は、この提言の実現を願い、伸一が中国を訪問し、周総理と会見することを強く勧めた。
しかし、伸一は、「国交回復の推進は、基本的には政治の次元の問題である。したがって宗教者の私が、今、訪中すべきではない」と考え、自分が創立した公明党の訪中を提案したのである。
一九七〇年(昭和四十五年)春、日中覚書貿易の交渉の後見役として訪中した松村は、伸一のこと、また、公明党のことを、周総理に伝えた。
翌七一年(同四十六年)六月、公明党の訪中が実現し、周総理との会見が行われる。総理は、国交正常化の条
件を示した。それを盛り込んだ共同声明が、公明党訪中代表団と中日友好協会代表団との間で作成され、七月二日に調印が行われたのである。
国交正常化への突破口が開かれたのだ。
この共同声明は、「復交五原則」と呼ばれ、その後の政府間交渉の道標となっていった。それから間もない七月半ば、ニクソン米大統領は、テレビ放送で、翌年五月までに訪中する計画があることを発表。
既に大統領補佐官のキッシンジャーが訪中し、周総理と会見していたことを明らかにした。歴史の流れは、大きく変わり始めていたのだ。
日中両国の政府間交渉は進み、遂に、七二年(同四十七年)九月二十九日、日本の田中角栄首相、大平正芳外相と、中国の周恩来総理、姫鵬飛外相によって、北京で「日中共同声明」が調印されたのである。
そこでは、日中国交正常化をはじめ、中国の対日賠償請求の放棄、平和五原則による友好関係の確立などが謳われていた。
伸一の提言は、現実のものとなったのだ。
声を発するのだ! 行動を起こすのだ!
そこから変革への回転が開始する。