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日蓮大聖人・池田大作

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第26巻 「勇将」 勇将

小説「新・人間革命」

前後
1  勇将(1)
 厳寒の空に、微笑む星々が美しかった。
 静かに波音が響き、夜の帳が下りた海には、船の明かりが点々と瞬いていた。
 一九七八年(昭和五十三年)一月十九日の午後五時過ぎ、山本伸一は、高松駅から車に乗り換え、香川県・庵治町にオープンした四国研修道場に向かった。研修道場に到着した時には、既に日は沈んでいたが、彼は、海を見下ろす庭に立った。
 「いいところだね……」
 伸一は、四国総合長の森川一正に言った。
 「はい。明るければ、左手に、源平・屋島の戦いの舞台となった屋島も見えます。
 また、この辺りは『船隠』と呼ばれ、岬の陰になって見えないことから、平氏がたくさんの船を隠したところだそうです」
 「屋島の戦いか。勇将・源義経の勇気と英知が光る戦いだったね。
 武士から公卿となって、″平家″を名乗り、『平家にあらずんば人にあらず』というほどの権勢を誇った平氏が、最後は滅ぼされてしまう。当時の人たちの多くは、思いもしなかったことだろう。
 まさに、『驕る平家は久しからず』だ。平氏敗北の根本要因は、民衆の心を忘れた驕りと油断にあったといえるだろう。権勢を手に入れ、それに慣れてしまうと、わがまま、贅沢になり、民衆の苦しみがわからなくなってしまう。その時に人心は離れ、基盤が崩れ始めていく。だが、それに気づかない。実は、そこに、慢心の落とし穴がある」
 森川は、真剣な顔で頷きながら言った。
 「それは、遠い昔のことではなく、すべてに通じる話だと思います」
 「そうなんだよ。リーダーというのは、常に民衆の心を忘れず、民衆のために自分を捧げていかなくてはならない。
 そして、常に、一人立って、率先垂範の姿勢を示していくことだ。
 源氏が平氏打倒に立ち上がる突破口を開いたのは、平氏への忍従の末に決起した七十代半ばの老武将・源頼政だ」
2  勇将(2)
 治承四年(一一八〇年)、源頼政は後白河法皇の皇子・以仁王の令旨を得て平氏討伐の兵を挙げた。頼政は果敢に戦うが、宇治平等院の戦いに敗れ、自害する。
 しかし、命を懸けた彼の決起によって、伊豆国(静岡県東部)に流されていた源頼朝、頼朝の従弟で信濃国(長野県)木曾にいた源義仲などが、次々と挙兵する。
 平氏の横暴に対して、武士をはじめ、人びとの不満はつのり、討伐の機は熟していたのだ。しかし、源氏の蜂起には、発火点が必要であった。その役割を果たしたのが頼政であった。一人の勇気ある決断が、時代転換の導火線に火をつけ、歴史の流れを変えたのだ。
 翌治承五年(八一年)に平氏の総帥・平清盛が病死する。義仲は、平氏を破り、京の都を手中に収めると、傍若無人の限りを尽くす。やがて征夷大将軍となるが、頼朝の命を受けた義経らによって討たれてしまう。
 源氏には、後白河法皇から平氏追討の院宣が下り、義経は平氏が陣を構える摂津国福原(神戸市兵庫区内)を攻める。そして、寿永三年(一一八四年)の二月、摂津の一ノ谷の合戦で、「鵯越の逆落とし」といわれる奇襲で平氏を破ったのである。
 西国に逃れ、讃岐国(香川県)の屋島に本拠地を置いた平氏は、瀬戸内海を押さえ、大軍をもって海の防備を固めていた。海上での戦いとなれば、義経に勝算はない。そこで彼は、まず四国に渡って、陸路、屋島に迫り、背後から平氏を討とうと考えたのだ。
 勝利への執念は、あらゆる知恵を生み出す。執念あるところ、知恵の泉は枯れ果てることはない。
 暴風が吹き荒れる夜半であった。海は猛り、激浪は白い牙をむいていた。しかし、追い風である。義経は、直ちに、用意した船で四国に渡ろうと決断する。
 「敵は用心を怠る。この好機を逃すな!」
 強風に尻込みする者たちを叱りつけ、わずか五艘の船で荒波に向かった。若き闘将の勇敢な行動が、武士たちの勇気を鼓舞した。
3  勇将(3)
 烈風のなか、源義経の軍は、四国の阿波国(徳島県)方向に船を進めた。激浪にもまれながらの渡海であった。苦しい航路ではあったが、強風が幸いし、六時間ほどで、阿波に着くことができた。だが、そこにも、平氏の赤旗が翻っていた。
 五艘の船に分乗した義経軍の馬は、五十余頭にすぎなかった。しかし、平氏を蹴散らし、陸路、屋島へと向かった。途中、地元の武士も義経軍に加わり、陣容を増していった。
 勢いと団結は、人を魅了し、加勢を引き付ける。
 彼らは、夜間も行軍を続け、阿波と讃岐の国境の大坂峠を越え、屋島南部の対岸に迫った。ここで、辺り一帯に火を放った。
 もうもうと煙が立ち上り、火が燃え上がるのを見て、平氏の武将たちは、″源氏の奇襲だ!″と驚き、慌てた。
 平氏は御所を放棄し、安徳天皇を守りながら船に乗って、蜘蛛の子を散らすように、沖合へ逃げ始めた。
 平氏は、″源氏は瀬戸内海を渡って攻めて来る″と思い込んでいた。船の数も多く、海上での戦いには自信があった。その自信が弱点となった。背後からの攻撃に意表を突かれて、冷静さを欠いてしまったのである。
 戦いには、変化に次ぐ変化が待ち受けている。その時に、慌てふためき、狼狽するところにこそ、敗北の要因がある。
 源氏は、五、六騎から十騎ほどが一団となり、白旗をなびかせ、浅瀬の水を蹴立てて疾駆して来る。平氏の武将たちの目には、大軍の襲来と映った。
 義経が名乗りをあげた。一斉に平氏の船から矢が放たれ、戦いが開始された。
 その間に、義経軍の別の一団は、屋島に上陸し、御所などを焼き払っていった。
 よくよく見れば、源氏の騎馬は、平氏の大軍とは比較にならぬほど少数である。それに気づいた平氏の武将たちは、闇雲に遁走してしまったことが、悔やまれてならなかった。

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