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日蓮大聖人・池田大作

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第26巻 「厚田」 厚田

小説「新・人間革命」

前後
1  厚田(1)
  広布旅
    師弟不二なり
      三世まで
 秋草の大地が続き、ところどころに茂る、色づき始めた木々が、風に揺れていた。
 一九七七年(昭和五十二年)九月三十日正午過ぎ、山本伸一と妻の峯子は、札幌市豊平区の札幌創価幼稚園を車で発ち、恩師・戸田城聖の故郷である厚田村(現在の石狩市厚田区)をめざしていた。厚田に、師の名を冠した戸田記念墓地公園が完成し、その式典に出席するためであった。
 出発して一時間、緩やかな坂を上ると、豁然と景観が広がり、銀色に光る海が見えた。
 車に同乗していた、副会長で北海道総合長の田原薫が伸一に言った。田原は、学生部長、青年部長等を歴任してきた人物である。
 「先生。この辺りは既に厚田村で、近くに望来川があることから、ここは『望来』といいます。流れの遅い、静かな川を意味するアイヌ語の『モライ』が語源で、字は、希望の『望』に、来るの『来』と書きます。墓地公園も、住所は、この望来になります」
 「″希望が来る地″か。いい地名だね。
 仏法というのは、一言すれば、希望の哲学だ。万人が己心に仏の生命を具えていると説く仏法には、どんな逆境にあろうが、絶望はない。わが″宿命″は、この世の″使命″であると、確信していくことができる。その確信から、努力が生まれ、人生の勝利への、さまざまな創意工夫が生まれていく。
 心が敗れてしまえば、希望の種子は腐り、芽が出ることはない。希望は、豊かで、強い心の大地から生まれるんだ。自分の心の外にあるものじゃないんだ。
 私たちの手で、厚田の地を、希望が来る『望来』にしていこうよ。それが、戸田先生を本当の意味で顕彰していくことになるし、弟子としてのご恩返しにもなる」
 田原は、厚田に希望の春を呼ぼうとする伸一の、強い気迫を感じた。
2  厚田(2)
 山本伸一たちの乗った車は、ほどなく戸田記念墓地公園の正門に着いた。側面が三角形の、モダンなデザインの白い門である。
 伸一は、そのまま、車を走らせてもらい、まず、園内を一巡することにした。
 正門から真っすぐにメーン道路が続き、その正面には、円形の戸田記念広場がある。
 広場には、戸田城聖が逝去前年の一九五七年(昭和三十二年)の新春、青年部に贈った歌の碑があった。
  荒海の
    鯱にも似たる
      若人の
    広布の集い
      頼もしくぞある
 さらに、戸田が作詞した「同志の歌」を刻んだ碑もある。
 また、伸一が愛する北海道の同志たちに贈った歌の碑もあった。
  若き日の
    恩師が歴史を
      刻みたる
    北海天地に
      わが弟子舞い征け
 伸一が、戸田の故郷・厚田と、その少年時代を詠んだ詩「厚田村」の碑も立っていた。
 戸田記念広場を過ぎると、緑の芝生のなかに、白御影石の同じ形をした、「妙法」の文字と家名を刻んだ墓碑が、整然と並んでいた。
 一切衆生が平等に、「仏」の生命をもっていると説く仏法の教えの通り、そこには、なんの差別もない。
 ″日蓮仏法の生命観を表現した、平等で明るく、雄大なものにしたい″というのが、墓園建設にあたっての、伸一の考えであった。
 また、美しく配列された墓碑が描き出すラインは、翼を広げた大鷲のようにも見えた。
 それは、世のため、社会のために何事かを成さんと、大望をいだいて厚田の地から飛び立った、恩師の心意気を示しているように、伸一には思えた。
3  厚田(3)
 厚田の戸田記念墓地公園は、北東に暑寒別の山々が連なり、西には荒波躍る日本海が広がる景勝の地にある。総面積約百五十万平方メートルで、阪神甲子園球場のおよそ三十九個分の広さになる。
 墓地公園内には、桜、ポプラ、イチョウ、プラタナスなど、十数種類六万本の木々が植えられている。
 山本伸一たちの乗った車は、恩師を顕彰する墓碑のある恩師公園、墓園の管理・運営事務所である管理センター、礼拝堂、墓参者の休憩・食事処となる厚田亭などを通って、園内を一巡した。そして、戸田講堂に向かった。戸田講堂は、法要や儀式等の各種諸行事が行われる建物である。
 車中、伸一は、妻の峯子に語った。
 「空気は澄み、木々も美しい。雄大な、すばらしい墓地公園だね。戸田先生もお喜びくださっているよ。私には、微笑みを浮かべられる先生のお顔が、よく見えるんだよ。
 嬉しい。本当に嬉しい。弟子として、恩師を顕彰できることに勝る喜びはないもの」
 伸一は、第三代会長に就任した一九六〇年(昭和三十五年)の八月二十七日、北海道指導の時間をこじ開けるようにして、厚田村を訪問した。戸田の弟子として、恩師の故郷を訪れ、会長就任の報告をするためであった。
 戸田の縁者が営む戸田旅館で昼食を取り、地元の同志らと厚田の港を歩いただけの、短時間の滞在であった。
 その帰路、彼は思った。
 ″この厚田村から、戸田先生という若鷲が、人類救済のために羽ばたいていった。そして広宣流布の礎を築かれた。その先生を、後世永遠に顕彰していくためにも、いつかこの地に、先生の精神をとどめる、『記念の城』を築かねばならない。それが弟子としての私の使命であり、責任である″
 その思いは、時を経て熟成し、三世にわたる師弟旅の象徴ともいうべき、この墓地公園建設の構想となっていった。師ありての弟子であり、弟子ありての師である。

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