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日蓮大聖人・池田大作

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第25巻 「薫風」 薫風

小説「新・人間革命」

前後
1  薫風(1)
  九州が
    ありて二章の
      船出かな
 これは、創価学会が、「広布第二章」の大空へ新たな飛翔を開始した一九七三年(昭和四十八年)の三月、北九州市で開かれた第一回「九州青年部総会」を記念して、山本伸一が詠んだ句である。
 句には、九州の同志が担うべき、広宣流布の″先駆″としての使命を、断固として果たし抜き、創価の牽引力になってほしいとの、伸一の限りない期待が込められていた。
 七七年(同五十二年)五月二十二日の夕刻、北九州文化会館(現在の北九州平和会館)の庭で、この句碑の除幕が行われた。
 伸一が見守るなか、同志の代表によって、句碑に掛けられた白布が取り除かれた。
 石に刻まれた金色の文字が、鮮やかに光っていた。伸一の筆である。
 薫風に、拍手が空に舞った。
 伸一は、集っていた九州の同志に語った。
 「いよいよ九州の時代が来たよ。
 広宣流布は東京から始まった。そして、関西も立ち上がり、常勝の新風を送り、学会は大きく羽ばたいていった。今度は、九州の出番だ。九州が立つ時が来たよ。これからは、永遠に『九州ありての学会』『九州ありての広布』でなければならない。
 九州の使命である″先駆″ということは、最後まで、常に″先駆″であり続けるということです。最初は、威勢よく、先陣を切って飛び出しても、途中から疲れて遅れ始め、最後は″びり″になってしまうというのでは、意味がありません。
 初めの勢いだけで、″先駆″であり続けることはできない。持続が大事です。そのためには、緻密な計画性に基づいた地道な努力が必要なんです。したがって、″先駆″とは、″堅実さ″に裏打ちされていなければならないことを知ってください」
 瞳を輝かせながら、皆が頷いた。
2  薫風(2)
 山本伸一は、山口訪問を終え、北九州文化会館に到着するや、直ちに、記念植樹、記念碑の除幕式に臨んだのである。
 それから彼は、館内を回った。北九州文化会館は、一月に開館した新法城である。
 伸一は、九州の幹部らに言った。
 「北九州は、先駆の使命を担う九州のなかでも、その先駆となってきた。そこに、立派な文化会館ができた。また、九州各県に次々と新しい文化会館が誕生している。大発展の基盤は着々と整いつつある。この文化会館を活用して、青年をどんどん育成していこう。
 いかなる世界でも、青年を本気になって育てなければ、未来の発展も、勝利もない。すべてを、青年のために注ぎ尽くすんだ」
 ほどなく、三階の和室で、伸一を囲んで懇談会が行われた。参加者は、男子部を中心とした九州方面や福岡県の幹部ら十数人であった。懇談が始まると、福岡県男子部長の安宅清元が、襟を正して語り始めた。
 「本部幹部会の司会では、ご迷惑をおかけし、大変に申し訳ありませんでした!」
 安宅は、四日前の五月十八日に福岡で行われた五月度本部幹部会で、司会を務めた。
 しかし、疲れていたのか、声に張りがなく、元気がなかった。集った人びとも、″晴れの本部幹部会の雰囲気には、そぐわない司会である″との感じをいだいたようだ。
 さまざまな折に、直接、各地の青年たちを育成したいと考えていた伸一は、今、この時が、訓練の絶好の機会だと思った。そして、安宅に、あえて、厳しい口調で言った。
 「そんな声では、みんなが、やる気をなくしてしまうよ。司会交代!」
 何度も司会を経験している、東京から同行してきた青年部の幹部に代わった。
 安宅は、″本部幹部会という重要な行事で、なんという大失態を演じてしまったんだ″と思うと、生きた心地がしなかった。
 しばらくすると、伸一が笑顔で言った。
 「司会復帰! 先輩のやり方を見て、どうすればいいか、学んだね」
3  薫風(3)
 安宅清元は、再び司会として、全身の力を振り絞る思いで、次の登壇者を紹介した。
 山本伸一は、黙って頷きながら、安宅に視線を注いでいた。
 本部幹部会が終わると、安宅は、伸一に手紙を書いた。自分の失態を詫び、「必ず、日本一の司会ができるように、頑張ってまいります」と、決意を認めたのである。
 伸一は、彼の青年らしい、その前向きな心意気が嬉しかった。
 人には、必ず失敗があるものだ。失敗は、恥ではない。そのことで落ち込んでしまい、くよくよして、力を発揮できない弱さこそが恥なのだ。また、同じ失敗を繰り返すことが恥なのだ。失敗があったら、深く反省し、そこから何かを学ぶことだ。そして、二度と同じ過ちを繰り返さないことだ。さらに、それをバネにして、大きな成長を遂げていくのだ。その時、失敗は財産に変わるのである。
 九州にゆかりの作家・長与善郎は、小説の登場人物に、青年への期待を語らせている。
 「自分の信ずるとおりに大きく歩きぬいて、次のいい時代の先駆者になり、人類の柱になってほしく思う」と。
 それは、伸一の思いでもあった。
 北九州文化会館の懇談で、伸一は、安宅をはじめ、青年たちに言った。
 「今日は、司会について語っておきます。
 司会者は『会の進行を司る人』なんだから、会合を行ううえで、極めて重要な役割を担っているんです。会合の成否は、司会によって決まる部分が大きい。
 したがって、司会者は、″自分が、この会合の一切の責任をもつのだ″″自分の一声で、会場の空気を一変させ、求道と歓喜の、仏法の会座へと転ずるのだ″という決意がなくてはならない。私も、そうしてきました」
 伸一は、青年時代、さまざまな会合の司会を担当してきた。なかでも、彼にとって忘れ得ぬ司会となったのが、一九五五年(昭和三十年)三月十一日、北海道・小樽市公会堂で行われた「小樽問答」であった。

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