Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第25巻 「共戦」 共戦

小説「新・人間革命」

前後
1  共戦(1)
 フランスの大歴史家ミシュレは言う。
 「歴史とは行動の報告書である」
 君が歩いた分だけ、道ができる。あなたが語った分だけ、希望の種が植えられる。
 困難に退くまい。流した汗も、涙も、すべては福運の宝玉となる。よき人生とは、人のために尽くした行動の、輝ける年輪である。
 われらの太陽は、東天に昇り、新しき朝の到来を告げた。さあ、胸を張り、行動を開始しよう。燦たる未来に向かって、さっそうと走りだすのだ。
 皆が燃えていた。広宣流布という地涌の菩薩の使命に生き、創価の誓いを果たさんと、わが同志の歓喜の行進には、一段と力がみなぎっていた。
 一九七七年(昭和五十二年)三月十九日、聖教新聞を開いた同志の顔がほころんだ。
 その二面トップに、三段ほどの扱いであったが、「創価学会のシンボルマークが誕生」の見出しとともに、八葉蓮華をデザインした図案が掲載されていたのである。
 そこには、こう記されていた。
 「これは八葉蓮華をデザイン化したもので、本部代表者会議(三月十六日)での投票によって決まったもの。
 シンボルマークの八葉の花模様が、幾重にも広がりをみせる姿は『八とは色心を妙法と開くなり』の意義を踏まえ、一人一人の生命の仏界を開き顕し、また日蓮大聖人の妙法が未来永劫に世界を包んで流布していく様相を表象している。
 更に全体として豊かなふくらみをもっている姿は、人間革命の深化と功徳に満ちあふれる学会員一人一人の姿を表現したものである。
 この新しいシンボルマークは、広布の新章節を開く学会の″希望の紋章″として、広く愛用されていこう」
 それまでの鶴丸の紋章に代わって、″創価の新時代″を象徴する、新しいシンボルマークが誕生したのである。
2  共戦(2)
 この一九七七年(昭和五十二年)は、全国各地に、県・区の中心会館となる文化会館などの建設の槌音が響き、また、完成を見ていった年であった。
 それらの建物は、学会が二十一世紀という広宣流布の新時代に飛翔していくための、重要な布石であった。
 山本伸一は、三月下旬から四月下旬にかけて、東京の目黒平和会館、葛飾文化会館、さらに、中部文化会館の開館記念勤行会などに相次ぎ出席していった。そして、全国各地が新法城建設の喜びに沸くなか、彼の会長就任十七周年となる五月三日を迎えたのである。
 伸一は、席の温まる暇もなく、五月十日からは、関西を訪問し、滋賀文化会館の開館記念勤行会や、関西の代表幹部との懇談会等に臨んだ。十四日に東京に戻ると、十七日からは、九州・山口訪問に出発したのである。
 彼は、決意していた。
 ″各県各区に新しい会館が完成し、広宣流布の新段階を迎えようとしている今こそ、全同志の心に、万年にわたる信心の堅固な礎を築かなくてはならない。また、人材を見つけ、育てよう! 全国各地に難攻不落の人材城をつくろう!″
 十七日の午後五時前、彼は、福岡市博多区に誕生した九州平和会館に到着した。
 福岡は、日蓮大聖人御在世当時の文永十一年(一二七四年)と弘安四年(一二八一年)に起こった、文永・弘安の役、すなわち蒙古襲来の激戦の舞台である。
 以来、七百年――その福岡から、東洋、そして世界へ、恒久平和の哲理を発信しようとの誓いを託し、この新法城を九州平和会館と名づけたのである。
 伸一が平和会館の前に立つと、会館由来の碑などに白布が掛けられ、除幕式の準備ができていた。それを見ると、彼は言った。
 「さあ、九州の出発だ! すぐに除幕をしよう。すべては時間との戦いだもの、一瞬一瞬を有効に使うんだ。時間を制することができる人が、勝利の人なんだよ」
3  共戦(3)
 九州平和会館の由来を記した碑をはじめ、初代会長・牧口常三郎の「創価精神」、第二代会長・戸田城聖の「立正安国」などの文字を刻んだ石碑の除幕が行われた。
 山本伸一は、それから館内に入ると、地元幹部の代表らと、九州平和会館の開館を記念して勤行を行った。
 その後、九州や福岡の十人ほどの幹部と懇談した伸一は、感慨をかみしめて語った。
 「いよいよ明日は、この九州平和会館で本部幹部会だ。すごい時代になったね。福岡から、全国、全世界に、広宣流布の潮流を起こしていくんだ。これからは、各県が、一つの創価学会になれるぐらい、総合的に力をつけていかなければならない。今回の本部幹部会は、その前哨戦だよ」
 本部幹部会は、東京の日大講堂や日本武道館などで行われてきたが、伸一は、新しい流れを開こうと、三年半前に、こう提案した。
 「本部幹部会は、いつも東京の大会場で開催するのではなく、各地で行い、地方から新しい前進の活力を送ってはどうだろうか」
 そして、一九七四年(昭和四十九年)の一月度本部幹部会は、福岡県の九電記念体育館、二月度は千葉県総合運動場体育館と、各地の外部会場で開催されてきた。
 さらに、全国に次々と学会の新しい会館や研修所が誕生すると、そこで本部幹部会を行うようになった。
 この七七年(同五十二年)を見ても、一月度は和歌山県の関西総合研修所、二月度は川崎文化会館、三、四月度は、東京の創価文化会館、目黒平和会館で開催されている。
 伸一は、東京という一つの機関車が、全国を牽引する時代は終わったと思っていた。各車両がモーターを備えた新幹線のように、各方面、さらには各県区が自力で走行し、他地域をリードできる力をもってこそ、各地の個性をいかんなく発揮した、広宣流布の新たな大前進が可能になるからだ。
 地域があらゆる実力を備えてこそ、「地方の時代」の到来がある。

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