Nichiren・Ikeda
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1 福光(1)
春を告げよう!
新生の春を告げよう!
厳寒の冬に耐え、
凍てた大地を突き破り、
希望の若芽が、
さっそうと萌えいずる春を告げよう!
梅花は馥郁と安穏の園を包み、
桜花は爛漫と幸の歓びを舞う、
民衆の凱歌轟く、勝利の春を告げよう!
踏まれても、踏まれても、
われらは負けない。
どんなに、どんなに、
激しい試練に打ちのめされても、
頭を上げて、われらは進む。
前へ、前へ、ただただ前へ!
怒濤がなんだ! 大風がなんだ!
われらには、
不撓不屈の「みちのく魂」がある。
わが胸中には、
地涌の菩薩の闘魂が燃え、
仏の慈悲の大生命が、
金色燦然と輝いている。
われらには、
この世で果たさねばならぬ
久遠の大使命がある。
万人の幸福と社会の繁栄を築く、
創価の師弟の大願がある。
君よ!
「悲哀」を「勇気」に変えるのだ。
「宿命」を「使命」に転ずるのだ。
暁闇を破り、
わが生命に旭日を昇らせゆくのだ!
「みちのく」に春を告げる
新生の太陽となって躍り出るのだ!
一九七七年(昭和五十二年)三月十一日、山本伸一は、福島県に向かった。郡山市桑野に完成した福島文化会館(現在の郡山中央文化会館)を訪問するためである。
2 福光(2)
午後二時に上野駅を発った東北本線・特急「ひばり」は、関東平野を驀進していった。
車窓に広がる風景は、まだ、冬の眠りから覚めず、枯れ草の茂みが風に揺れ、灰褐色の地肌をむき出しにした田畑が広がっていた。
″今年は、豊作だろうか……″
山本伸一は、田植え前の、水のない田んぼを見ながら、心で題目を唱えた。
前年の一九七六年(昭和五十一年)、日本は、冷夏や台風の影響で、米が戦後五番目の不作となっていた。特に、東北、北海道を中心に、八月から九月にかけて低温の日が続き、収穫量が激減。多くの農家が辛酸をなめたのである。
十一月、農林省(当時)がまとめた農作物の冷害被害状況によれば、被害総額は四千九十三億円に達し、北海道が八百六十一億円、岩手県三百六十一億円、宮城県三百二十四億円、新潟県三百十三億円、青森県三百九億円、福島県二百八十五億円などとなっていた。
さらに、十二月から二月にかけて、日本は強い寒波に襲われた。東京でも一月の平均最高気温は七・五度にとどまり、戦後最低を記録。全国の積雪も、「三八豪雪」(昭和三十八年一月の大豪雪)以来といわれ、青森市では、二月八日に戦後最深の積雪百九十五センチとなった。北海道の幌加内町母子里では、零下四〇・八度という、戦後の日本最低気温を記録している。
この寒波による大雪で、国鉄(現在のJR)では、二万九千本以上が運休となった。
また、寒波の影響は、農作物にも被害をもたらし、野菜の生育が遅れ、一時期、価格が急上昇した。特にキャベツは、二月には、前年秋の六倍にまで高騰したのだ。東北は、この寒波でも、大きな影響を受けたのである。
伸一は、思った。
″東北は、冷害や旱魃、チリ地震津波など、幾度となく過酷な試練にさらされてきた。だからこそ、その宿命を転換し、どこよりも栄え、どこよりも幸せになっていただきたい。その夜明けを告げる東北訪問にしよう!″
3 福光(3)
山本伸一が福島文化会館に到着したのは、午後四時半過ぎであった。
文化会館は、郡山駅の西に位置し、北には安達太良山が、東には阿武隈高地が遠望できた。敷地は広々としており、建物は、茶色いタイル壁で覆われた、鉄筋コンクリート造り三階建てであった。
一階には事務室や編集室、会議室が、二階には二百八畳の大広間や和室がある。また、三階は記念室などとなっていた。
伸一が玄関の前で車を降りると、数人の幹部が出迎えてくれた。
彼は、福島県長の榛葉則男と東北長の利根角治に視線を注ぎながら、気迫のこもった声で語りかけた。
「来ましたよ! 新しい福島を、東北を創ろう! 今日からは、新章節への出発だよ」
「はい!」
二人が、声をそろえて答えた。
伸一は、文化会館の庭を歩き始めた。
「立派な会館ができたね。みんな、喜んでいるだろうね。この会館で信心を充電し、大確信と大情熱をもって飛び出し、広宣流布の大旋風を起こしていくんだよ」
榛葉は、宮城県出身で、全国の副青年部長等を務め、前年十二月に福島県長に就任した、進取の気風と企画力に富む三十五歳の青年であった。
伸一は、その彼に、広宣流布建設の本当の力とは何かを、語っておこうと思った。
「榛葉君。新しい福島をつくるためには、目先の変わったプランや、新しい運動方針を打ち出せばいいというものではない。根本は全同志の一念の転換であり、生命の革新だ。わが郷土を愛し、広宣流布に生き抜こうという、本物の闘士をつくっていくことだよ。
福島創価学会が、ここまで発展してきたのは、草創の同志たちの、真剣勝負の戦いがあったからだ。周囲から罵られ、迫害され、どんな仕打ちを受けても、一歩も引かずに、ひたすら広宣流布のために、一身をなげうってくださったことを絶対に忘れてはならない」