Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第23巻 「敢闘」 敢闘

小説「新・人間革命」

前後
1  敢闘(1)
 時代も、社会も、時々刻々と変化を遂げていく。創価学会も、新しい人材が陸続と育ち、新しい会館や研修所も次々と誕生し、新時代を迎えようとしていた。
 しかし、いかに時代や環境が変わろうが、絶対に変わってはならないものがある。
 それは、広宣流布に生き抜く「創価の師弟の精神」である。
 山本伸一は、男女青年部が結成二十五周年を迎え、広宣流布の新しい時代に入った今こそ、後継の青年たちに、その精神を脈々と伝え抜いていかねばならないと考えていた。
 この一九七六年(昭和五十一年)の七、八月にかけては、夏季講習会、夏季研修会が、総本山をはじめ、全国各地の研修所や会館などで行われることになっていた。
 伸一は、その講習会、研修会などで、多くの青年たちと対話しながら、「創価の師弟の精神」を訴え抜いていこうと、深く決意していた。
 七月二十三日、中部指導に赴いていた彼は、名古屋文化会館での中部最高会議のあと、全国から集って来た女子部「青春会」のメンバーと共に勤行し、指導・激励した。
 彼女たちは、前日の夜、三重県・白山町に七月三日にオープンした中部第一総合研修所(現在の三重研修道場)で、第一回全国青春会総会を開催した。その報告を聞いた伸一は、ぜひ、会って励ましたいと思った。
 御聖訓には、「女子おなごは門をひら」と仰せである。一人の女子部を励ますことは、一家一族の幸福の門を開き、未来万代の勝利の門を開くことに通ずる。
 激励は、勇気の新風を送る。
 伸一は、夜には、中部第一総合研修所での諸行事に出席するため、出発の時刻が迫っていたが、時間をこじ開けるようにして一緒に勤行し、懇談のひと時をもったのである。
 「時間を無駄にすることのない人は、決して時間が足りないという不平は言わないものである。常に行動していれば、実に多くのことを達成できる」(明石紀雄著『モンティチェロのジェファソン』ミネルヴァ書房)とは、アメリカの第三代大統領ジェファソンの至言である。
2  敢闘(2)
 全国から集った「青春会」のメンバーと勤行した山本伸一は、皆に視線を注ぎながら、語り始めた。
 「人生には、生老病死の四苦がつきまとっています。生まれてくること、生きること――そこにも、常に苦しみがあります。
 生を受けても、経済的に豊かな家に生まれる人もいる。反対に、食べていくことさえ大変な、貧しい家に生まれる人もいる。
 また、健康な体で生まれる人もいれば、病をもったり、病弱な体で生まれてくる人もいる。両親の愛情を一身に受けて育つ人もいれば、愛情に恵まれない環境で育つ人もいる。
 そこに宿命という問題がある。これは、学問や科学では、割り切れない問題です。既成の宗教でも、解決できません。日蓮大聖人の大仏法にしか、この問題を解決し、乗り越えていく道はありません」
 伸一は、なんのための信仰かを、メンバーに心の底からわかってもらいたいとの思いから、女性の一生に即して、宿命について語っていった。
 「皆さんは、やがて結婚されるでしょう。娘時代は、どんなに華やかで、名門の大学を出て、周囲から賞讃されていたとしても、結婚によって、どんな人生を歩むようになるかは、わかりません。
 夫や舅、姑との不仲に悩む人もいる。夫の仕事が行き詰まらないとも限らない。あるいは、夫が病に倒れたり、死別することもあるかもしれない。
 さらに、出産しても、生まれてきた子どもに先天的な病があるかもしれない。将来、子どものさまざまな問題で、悩むこともある。
 また、自分自身が、難病などで苦しむことだってあります」
 苦悩なき人生はない。それらの苦悩、宿命との格闘劇が、人生といえるかもしれない。
 その宿命を転換し、人生を勝ち越えていく、勇気と力の源泉が、仏法であり、信仰なのだ。そして、苦悩に負けない自身をつくり上げる場こそが、学会活動なのである。
3  敢闘(3)
 山本伸一は、さらに、「生老病死」のなかの、「老」について語っていった。
 「人間は、誰でも老いていく。人生は、あっという間です。過去がいかに幸せであっても、老いて、晩年が不幸であれば、わびしい人生といわざるを得ない。
 その人生を幸福に生き、全うしていくための、堅固な土台をつくるのが、女子部の時代なんです。
 若い時代に、懸命に信心に励み、将来、何があっても負けない、強い生命を培い、福運を積んでいくことが大事です。
 皆さんには、年老いて、“もっと、題目をあげておけばよかった”“真面目に信心に励んでいればよかった”“もっと、社会に貢献しておけばよかった”と、後になって悔いるような人生を送ってもらいたくはない」
 そして、「死」の問題に移っていった。
 「また、いかなる人間も、死を回避することはできない。
 文豪ユゴーは、『人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ』(ユゴー著『死刑囚最後の日』斎藤正直訳、潮出版社)と記している。
 トインビー博士も、対談した折に、しみじみと、こう語っていました。
 ――人間は、皆、死んでいく。生死という冷厳な事実を突き付けられる。
 しかし、社交界で遊んだり、それ以外のことを考えたりして、その事実を直視せずに、ごまかそうとしている。だから、私は、日本の仏法指導者であるあなたと、仏法を語り合いたかった。教えてもらいたかった。
 死という問題の根本的な解決がなければ、正しい人生観、価値観の確立もないし、本当の意味の、人生の幸福もありません」
 ゆえに日蓮大聖人は、「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せなのである。
 伸一は力説した。
 「その死の問題を、根本的に解決したのが、日蓮大聖人の仏法です。広宣流布に生き抜くならば、この世で崩れざる幸福境涯を開くだけでなく、三世永遠に、歓喜の生命の大道を歩み抜いていくことができるんです」

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