Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第23巻 「未来」 未来

小説「新・人間革命」

前後
1  未来(1)
 教育改造を叫んだ創価教育の父・牧口常三郎は記している。
 「吾々は未来に望を嘱して子孫の計を立てんのみ。今の処、誰が考えても教育以外に適当なる救済の途は見出し難かろうからである」
 子どもの育成は、未来を建設することだ。ゆえに、教育は、最も大事な聖業となる。
 色鮮やかな青い屋根、白い壁。とんがり帽子を被ったような形をした茶色の煙突が、空に伸びる。
 北海道札幌市の豊平区に完成した、札幌創価幼稚園は、おとぎの国の城を思わせた。
 「園長! 園児は、まだ来ませんか」
 いかにも待ちきれないといった様子で、山本伸一が、園長の館野光三に尋ねた。
 伸一は、既に三十分ほど前から、スーツに身を包み、園舎の玄関で、賓客を迎えるかのように、子どもたちを待っていた。
 一九七六年(昭和五十一年)四月十六日のことである。この日は、札幌創価幼稚園の第一回の入園式であった。
 園長が、恐縮した口調で答えた。
 「はい。開始は十二時半ですから、まだ、一時間ほどありますので……」
 「そうだね」
 伸一は、第一期生となる大切な園児たちを自ら出迎えようと、心に決めていたのだ。
 彼は、花や動物の絵などが飾り付けられた保育室をのぞきに行ったが、数分もすると、すぐに戻って来た。その間に到着する園児がいるのではないかと思うと、足は、自然に玄関に向いてしまうのである。
 落ち着かない伸一の様子を見て、館野は、創立者の心に触れた思いがした。
 ″山本先生は、これほどまでに、園児たちを待ち遠しく思っておられるのか!″
 医学の祖ヒポクラテスは「人間愛のあるところに、医術への愛もまたある」と述べた。教育への愛も、人間への愛から始まる。子どもたちを愛おしく思う心の強さから、教育への情熱も責任感も生まれるのだ。
2  未来(2)
 創価学会として「健康・青春の年」と定めた、この一九七六年(昭和五十一年)は、「創価教育」の新たな飛躍の年であった。
 北海道に札幌創価幼稚園が開園しただけでなく、三月には、大阪・交野市の創価女子学園(現在は関西創価学園)で、第一期生の卒業式が行われ、初めて卒業生を送り出したのである。
 また、創価大学も、大きな拡充、発展の時を迎えていた。
 四月から、新たに経営学部経営学科、教育学部教育学科・児童教育学科を設置。そして、開学当初からの念願であった通信教育部(経済学部経済学科、法学部法律学科)を開設。さらに、留学生のために別科(日本語研修課程)が設けられたのである。
 山本伸一は、創価教育の新段階ととらえ、生徒、学生の輪の中に飛び込むようにして、全力で激励を重ねていった。
 一月中旬には、関西の創価女子学園を訪問。第一期生の卒業を祝う昼食会に出席し、良き伝統を築くことの大切さについて語った。さらに、生徒と共にピアノ演奏もした。
 下旬には、東京の創価学園を訪れ、高校三年生の送別卓球大会、第六期生卒業記念集会などに相次ぎ出席。この日も、全精魂を注いで、生徒たちを励まし続けた。
 「私は、もう一度、学園に力を入れます。そのために奔走します。私の生涯の仕事は教育です。それに賭けているんです」
 また、「何のため」との原点を見失ってはならない。人間主義に根差した創価教育の目的は、民衆を蘇生させゆく指導者の育成にあると、烈々たる気迫で訴えたのである。
 アメリカの哲学者ジョン・デューイは、「教育は、人間性を、その神々しい完成の域へと高めるための手段である」と語っている。その基本は、人間と人間との、真剣な魂の触発にこそある。
 教育の結実には、歳月が必要である。粘り強く語らいを重ね、薫陶していくなかで、人間は目覚め、成長していくのだ。
3  未来(3)
 山本伸一は、一九七六年(昭和五十一年)の二月にも、創価学園の首脳たちと今後の運営について語り合い、さらに、寮生、下宿生の代表との懇談会ももった。また、創価女子学園を訪問し、生徒との茶会や教職員らとの懇談会に出席した。
 そして、三月十三日、創価女子高校の第一回卒業式に出席した伸一は、「生涯の友としての、美しき信義を貫き通していただきたい」と訴えたのである。
 三月十六日は、東京の創価高校の第六回卒業式であったが、伸一は、どうしても岡山を訪問しなければならなかった。そこで彼は、前日の午前中、録音テープにメッセージを吹き込み、届けてもらったのである。
 「私は岡山県におります。この岡山の地より、はるか諸君の卒業式を見つめながら、万感込めてあいさつをさせていただきます」
 そのなかで彼は、学友たちとの友情を永遠のものとしていくために、「精神の故郷」である創価学園に、魂魄をとどめることの大切さを語ったのである。
 「魂魄をとどめる」とは、″わが魂は、ここにあり″と、心を定めることだ。つまり、自分は、永遠に創価学園の担い手であり、建設の主体者であると決めることだ。
 「学園を、ただ懐かしむだけなら、自分との間に、まだ距離がある関係です。しかし、魂をとどめているという関係ならば、距離は全くなくなって、それは自己と対象とが、いつでも一体となり、同化している状態であります。万事、断絶だらけの現代において、見事に断絶を乗り越えた境涯であります」
 皆が、学園と一体であるという信念に立つならば、学友とも、生涯にわたって連帯の絆を、強め続けていけるにちがいない。
 学園生は、スピーカーから流れる伸一の声を聴きながら、″先生は、いつもぼくたちのことを思ってくれている。それは、先生が魂魄を、この学園にとどめられているからだ。ぼくたちも、学園に魂魄をとどめよう″と心に誓うのであった。

1
1