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日蓮大聖人・池田大作

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第22巻 「潮流」 潮流

小説「新・人間革命」

前後
1  潮流(1)
 太平洋上に光が走った。黄金の太陽が刻々と昇り始めた。それは、世界平和の朝を開く、仏法の人間主義の旭日を思わせた。
 一九七五年(昭和五十年)の七月二十二日午後十時に日本を発った山本伸一は、一路、ハワイをめざしていた。二十五日から三日間にわたってホノルルで行われる、第十二回全米総会を中心とした「ブルー・ハワイ・コンベンション(大会)」に出席するためである。
 師の写真  胸にいだきて  平和旅 
 伸一が初めて、世界への平和旅を開始した六〇年(同三十五年)十月二日、彼の上着の内ポケットには、恩師・戸田城聖の写真が納められていた。
 戸田は、世界の民衆の幸せと平和を願い続けた。晩年、病の床にあっても、「メキシコへ行った夢を見たよ。……行きたいな、世界へ。広宣流布の旅に」と語り、心は世界を駆け巡っていた。
 しかし、彼は海外に一度も出ることなく、愛弟子の伸一に「世界に征くんだ!」と遺言し、五十八歳の生涯を閉じた。
 世界の国々を訪問する伸一の心には、いつも戸田がいた。恩師を案内する思いで、平和旅を続けてきたのである。
 海外訪問の第一歩を印した、初のハワイ訪問から、早十五年を迎えようとしていた。あの日、ハワイの空港には、出迎える予定であったメンバーの姿さえなく、座談会に集った人も、わずか三十数人にすぎなかった。
 そのハワイで、アメリカ全土からメンバーが集い、州知事まで出席して、全米総会が行われるのだ。まさに隔世の感があった。使命に目覚めた同志の敢闘が時代を変えたのだ。
 「その使命に対する抑え難い信念によって火がつけられた、決然とした人々からなる小さな団体は、歴史の流れを変えることができる」とは、ガンジーの卓見である。
2  潮流(2)
 ハワイでは、七年前の一九六八年(昭和四十三年)八月にも、全米総会を開催していたが、今回の総会は会場も室内ではなく、ワイキキビーチである。
 いわば、社会に大きく開かれた、地域ぐるみの大イベントであった。
 山本伸一は、ハワイ初訪問から十五周年となる今回の「ブルー・ハワイ・コンベンション」に、さまざまな応援をしてきた。
 このハワイでの全米総会は、前年の三月に発表された。翌四月に行われたサンディエゴ・コンベンションに出席した伸一は、日本への帰途、ハワイに立ち寄り、全精魂を注いでメンバーを激励した。
 全米から参加者を受け入れる開催地の運営の苦労を、よくわかっていたからである。
 彼は、寸暇を惜しんで、一人ひとりの奮起を願い、励ましの揮毫の筆を執り続けた。
 また、この時に行われた、地元メンバーとの交歓の集いを、「一九七五――プレ・ハワイ・コンベンション」とし、皆と一緒に希望のスタートを切った。
 さらに、伸一は、七五年(同五十年)の一月、ロサンゼルスから、SGI(創価学会インタナショナル)の発足となるグアムでの第一回「世界平和会議」に向かう折にも、ハワイを訪問。代表のメンバーと協議を重ね、コンベンションの打ち合わせを行う一方、ジョージ・アリヨシ州知事を表敬訪問し、行事への理解と協力を求めた。
 アリヨシは、前年の十二月、日系人として初めて州知事に就任した、四十八歳の期待のリーダーであった。知事はハワイでのコンベンション開催を歓迎し、全面的な協力を約束してくれたのである。
 ″平和のため、広宣流布のために、奮闘する同志がいる限り、身を粉にして守り抜く。見えないところで、幾重にも手を打つ。そして、必ず大成功させ、勝利させてみせる!″
 それが伸一の決意であった。事実、彼は、常にメンバーのために、陰であらゆる手を打ってきた。その炎のごとき一念と行動こそが、学会の前進の原動力となってきたのである。
3  潮流(3)
 七月二十二日の午前十一時(現地時間)前、山本伸一はホノルル空港に到着した。
 ホノルルの空は、快晴であった。海も、大地も、風も、輝いていた。空港にはハワイ州知事補佐官やメンバーの笑顔が待っていた。
 「アローハ!」(ようこそ)
 山本伸一の妻の峯子、そして、伸一に、歓迎のレイがかけられた。
 「ありがとう! 世界平和への本格的な出発のコンベンションにしようよ」
 伸一の快活な声が響いた。
 ハワイに世界平和への旅の第一歩を印してから十五年。伸一は、今再び、このハワイから、新しい平和の大潮流を起こさねばならないと決意していた。
 戦後三十年にあたるこの年、世界の情勢は大きな変化を遂げつつあった。
 東西冷戦は緊張緩和の時代を迎え、七月十七日には、アメリカの宇宙船アポロ18号とソ連の宇宙船ソユーズ19号が大西洋の上空でドッキングに成功。
 両国の宇宙飛行士が握手を交わし合う映像が、世界に流れた。
 さらにベトナムでは、一九七三年(昭和四十八年)の和平協定成立後も戦いが続いていたが、この七五年(同五十年)の四月、北ベトナム軍・解放戦線軍が南ベトナムの首都サイゴンに無血入城し、ベトナム戦争にピリオドが打たれた。
 その一方で、中ソの対立の溝は深まり、中東和平も混沌とした状況が続いていた。
 また、六月には、アフリカのモザンビークがポルトガルから独立し、先進諸国の植民地のほとんどが独立国家となった。そして、これらの発展途上にある国々が、世界の三分の二以上を占めるようになった。
 それは、「北」と呼ばれる先進資本主義諸国と、「南」と呼ばれる発展途上国の、経済などをめぐる対立を生み、いわゆる「南北問題」を深刻化させていたのである。
 まさに、地球は一つであるとの視点に立った、世界を結ぶ平和創造の新しい哲学が求められていたのだ。

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