Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第22巻 「新世紀」 新世紀

小説「新・人間革命」

前後
1  新世紀(1)
 「新世紀――。
 それは、『平和の世紀』『人間の世紀』『勝利の世紀』『栄光の世紀』、そして『戦争なき世紀』『生命の世紀』だ」
 山本伸一は、立ち上がって、朗読するように、この言葉を口述し、妻の峯子に書き取らせた。
 一九七五年(昭和五十年)の五月三十日、第二次ソ連訪問から帰国した伸一の心は、新世紀建設への決意に燃えていた。
 世界平和をめざしゆく、わが創価学会には新しき前進の息吹がみなぎっていた。
 学会の強さは、民衆の団結にある。民衆の英知にある。
 地位や学歴など、一切の肩書をかなぐり捨てて、裸の人間として皆がスクラムを組み、時代建設の主体者となって、楽しく、勇敢に、和気あいあいと行進しているのが、われらの広宣流布運動である。
 「草莽崛起」(民衆の決起)は、吉田松陰の悲願であった。もし彼が、世界に広がる、わが創価の堂々たる民衆の陣列を目にしたならば、どれほど感嘆するであろうか。
 君よ、立て! 正義のために、広宣流布のために、そして自身の幸福のために!
 君よ、走れ! 民衆の勝利のために! 勇猛果敢な行動で、新時代の幕を開くのだ。
 その新しき前進のためには、新しき希望の目標が必要だ。呼吸を合わせ、緻密な計画を練り上げる、協議が大事である。
 伸一が、新世紀への飛翔のために、この時、最も力を注いだのが、東京各区をはじめ、各地の首脳幹部との協議会であった。
 日蓮大聖人は「謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり」と仰せである。
 帷帳とは、幕を張りめぐらした作戦協議の場所だ。その中で智慧を絞り、真剣に、緻密に作戦を練ることによって、千里離れた戦場の勝利を決するのだ。
 また、伸一は、協議を通して、各区や各県の中核メンバーの一人ひとりをよく知り、人の配置や、どんな人材がいるかを、自分の目で確認しておきたかったのである。
2  新世紀(2)
 ソ連から帰国した山本伸一は、この日の夜には副会長会議に出席して、新しい出発の打ち合わせを行うなど、一日の休息もなく、広宣流布の諸活動に全力を注いでいった。
 そして、六月の五日には、彼の故郷でもある大田区の代表五十人と、東京・港区内で協議会をもった。
 大田は、伸一を生み、育んだ天地である。師匠の戸田城聖との出会いも、この地であった。また、彼の広宣流布の初陣ともいうべき、一九五二年(昭和二十七年)の「二月闘争」の主戦場も大田であった。
 伸一は蒲田支部の新任の支部幹事として指揮を執り、一支部で二百一世帯という、当時としては未曾有の弘教を成し遂げたのだ。
 この蒲田支部の戦いが、それまでの低迷を打ち破り、戸田城聖が生涯の願業として掲げた、会員七十五万世帯達成への突破口を開いたのである。
 伸一が、第三代会長の就任式に出発したのも、初の海外訪問に出発したのも、大田区小林町の自宅からであった。
 ローンで購入した、小さな、質素な家であったが、そこから世界広宣流布の歴史が織り成されていったのだ。
 大田には、伸一が生命を削るようにして築き上げた黄金の歴史が無数にある。まさに、かけがえのない創価の精神の宝庫である。
 この誇りを忘れれば、どんなに偉大な歴史も単なる昔話となり、その精神は埋もれ、死滅していってしまう。
 師匠が、先人たちが、築き上げてきた敢闘の歴史は、その心を受け継ぎ、新しき戦いを起こそうとする後継の弟子によって、今に燦然たる輝きを放つのだ。
 伸一は、大田の同志には、あの「二月闘争」の指揮を執った若き日の自分と、同じ決意、同じ自覚、同じ情熱をもって、新時代の突破口を開いてほしかった。
 自分に代わって、皆が力を合わせ、大田を広宣流布が最も進んだ模範の地にしてほしかった。
 ″出でよ、陸続と出でよ! 山本伸一よ!″
 彼は、そう祈り、念じながら、大田区の協議会に出席したのだ。
3  新世紀(3)
 大田区の代表との協議会で、山本伸一は皆の意見を聞きながら、次々と提案を重ねた。
 そして、蒲田会館を、大田の中心拠点にふさわしい機能を備えた蒲田文化会館に改築。大森、雪谷の両会館も、文化会館に建て替えることになった。また、学会の組織として同区に所属する八丈島に、会館を建設することなどが決定した。
 学会はこれまで、総本山の整備をはじめ、宗門の寺院建立に力を注ぎ、学会の会館の整備は、後回しにしてきた。しかし、一九七二年(昭和四十七年)の正本堂の建立、そして、それに伴う周辺の整備がほぼ完了したことから、向こう五年間は、会館の建設など、学会の新しい発展の基盤づくりに力を入れることになっていた。
 伸一は、会館というと、戸田城聖との忘れられない思い出があった。
 ――本部となる独自の会館をつくることは、戦後、戸田が学会の再建に着手した時からの夢であった。戸田は、よく伸一に、「学会としての会館もないのでは、同志がかわいそうだ」と、もらしていた。
 しかし、一九四九年(同二十四年)秋ごろから、戸田の会社の経営は悪化し、窮地に陥っていった。学会に迷惑をかけないようにと、戸田は学会の理事長も辞任した。とても会館の建設どころではなかった。
 そんなある日、戸田と伸一は日比谷方面に出かけた。どしゃ降りの雨になった。傘もなく、タクシーもつかまらなかった。全身、ずぶ濡れになった戸田を見て、伸一は胸が痛んだ。弟子としていたたまれぬ思いがした。
 目の前に、GHQ(連合国軍総司令部)の高いビルがそびえ立っていた。そのビルを見上げて、伸一は戸田に言った。
 「先生、申し訳ございません。必ず、将来、先生に乗っていただく車も買います。広宣流布のための立派なビルも建てます。どうか、ご安心ください」
 弟子の真剣な決意を生命で感じ取った戸田は、嬉しそうにニッコリと頷いた。

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