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日蓮大聖人・池田大作

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第21巻 「宝冠」 宝冠

小説「新・人間革命」

前後
1  宝冠(1)
 飛行機が高度を上げると、上空には、果てしない青空が広がっていた。
 平和旅を続ける山本伸一の胸に、詩聖タゴールの詩の一節がこだましていた。
 「曇らない希望を君の魂にもって/新しい岸にまで到り着く力を死守せよ」
 荒れ狂う怒濤のごとき世界にあって、平和の岸辺へと人類を運ぶことは、気の遠くなるような労作業である。
 それは、常に困難と失意と絶望という暗雲との戦いである。だからこそ、信念と哲学と勇気をもち、何があろうが、わが胸に赫々たる希望の太陽を昇らせるのだ。
 断じて負けることの許されぬ戦い――それが、われらの人間主義の開拓作業なのだ。    
 一九七五年(昭和五十年)五月二十二日正午、フランスでの予定を終えた伸一は、妻の峯子、ヨーロッパ会議議長の川崎鋭治らと共に、パリの空港を発ち、モスクワに向かった。ソ連は二度目の訪問となる。
 機中、伸一は、原稿の束を取り出し、ペンを手に、真剣に目を通し始めた。
 そこには「東西文化交流の新しい道」とのタイトルが記されていた。今回、彼がモスクワ大学で行うことになっている、記念講演の原稿である。
 伸一は揺れる機内で推敲を重ねていった。
 彼は、この講演で、これまで対立的にとらえられてきた東洋と西洋の、心と心を結ぶ文化交流を提案し、平和を創造する新しい道を示したいと考えていたのだ。
 今回の訪ソは、前回、招聘元となったモスクワ大学だけでなく、ソ連対文連(ソ連対外友好文化交流団体連合会の略称)、ソ連作家同盟も招聘元として名を連ねていた。日ソ友好の推進力として、ソ連の伸一への期待と信頼は、一段と高まっていたのである。
 今回の訪問では、モスクワ大学での講演のほか、ノーベル賞作家M・A・ショーロホフ生誕七十年の記念行事への出席、対文連の訪問、文化省との交流などが予定されていた。
2  宝冠(2)
 山本伸一の一行がモスクワのシェレメチェボ空港に到着したのは、現地時間の午後五時四十分であった。
 空港には、ソ日協会会長であるT・B・グジェンコ海運相、モスクワ大学のR・V・ホフロフ総長、対文連のA・M・レドフスキー副議長、ソ日協会のI・I・コワレンコ副会長、R・M・エセノフ作家同盟理事会書記など、多数の人びとが待っていた。
 出迎えの多くの人が、これまでの伸一との交流を通して、近しい友人となっていた。
 グジェンコ海運相は初対面ながら、親友との再会を喜ぶように、満面の笑みで伸一を歓迎してくれた。
 伸一は、ソ日協会のコワレンコ副会長と握手を交わした時、微笑みを浮かべて言った。
 「また、今回も大いに議論しましょう。夜を徹してやろうではありませんか。日本に帰ってから眠りますから」
 コワレンコは、対日外交で強硬姿勢を貫くことで知られる、党中央委員会国際部のメンバーである。彼を「強面」と敬遠する日本人も少なくなかった。そのコワレンコが、相好を崩し、声をあげて笑って答えた。
 「再会の日を待っておりました。お元気な山本先生とお会いできて嬉しく思います」
 前回の訪問で、何度か忌憚のない対話を交わすなかで、深い友情と強い信頼の絆が結ばれていたのだ。直接会って、語り合うという行動が、心の扉を開き、相互理解を深め、不信を信頼へと変えていくカギとなるのだ。
 今回の訪ソ団には、婦人部、男女青年部、ドクター部の代表、創価大学、民音(民主音楽協会の略称)、富士美術館の代表が加わっていた。伸一は、ソ連との重層的な交流をさらに推進するために、それぞれの分野の代表と共に訪ソしたのである。
 彼は、どうすれば、日ソ間に、新しい橋を架け、さらに交流の道を広げることができるかを常に考え、次々と布石を重ねようとしていた。現状維持に甘んじ、新しき挑戦を忘れるならば、事態の進展はない。
3  宝冠(3)
 山本伸一は、真心の歓迎に深謝しながら、出迎えの人たちと、しばらく懇談した。
 前回の訪問で一行の世話をしてくれた、モスクワ大学で日本語を学ぶ学生たちの、元気な笑顔もあった。彼らの多くは、伸一の第一次訪ソのあと、日本に留学し、滞在中、伸一と交流を深めてきた。
 伸一が、一言、声をかけると、屈託のない笑いを浮かべ、流暢な日本語が返ってきた。
 「山本先生、日本では大変にお世話になりました。先生のご恩は忘れません。私たちのことを、モスクワの息子であると思って、どんなことでも言いつけてください」
 「おお、すばらしい! 日本語の目覚ましい上達に感嘆しました。もはや日本人以上です。私にも日本語を教えてください」
 笑いが広がった。
 それから一行は、車で宿舎のロシアホテルに向かった。
 モスクワの街は、新緑が鮮やかであった。
 昨年訪れた九月は、木々の葉が黄金に輝く金秋の季節であった。五月のモスクワは、緑と花の希望の季節である。
 ホテルでは、訪ソ団一行の打ち合わせが遅くまで続いた。伸一は、力をこめて訴えた。
 「今回は第二次の訪ソとなるが、二回目というのは極めて重要です。今後の流れが決まってしまうからです。対話だって、二の句が継げなければ、それで終わってしまう。この二の句に対話の進展がかかっている。
 二回目を成功させるには、どうすればよいか。それには、前回と同じことを、ただ繰り返すのではなく、一つ一つの物事を、すべて前進、発展させていくことです。
 高村光太郎の詩のなかに、『僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る』とあるが、私たちが、まさにそうです。
 創価大学も、民音も、富士美術館も、また婦人部も、青年部も、″今こそ日ソ友好の新しい歴史を開くぞ!″と決めて、情熱を燃やし、真剣勝負で臨むことです。形式的、儀礼的な交流は惰性です。それでは失敗です」

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