Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第21巻 「SGI」 SGI

小説「新・人間革命」

前後
1  SGI(1)
 平和の太陽は昇った。
 世界広宣流布の新しき幕は上がった。
 一九七五年(昭和五十年)一月二十六日――。
 西太平洋・マリアナ諸島南端の緑の島・グアムの地から、平和の大波が広がろうとしていた。
 この日、世界五十一カ国・地域のメンバーの代表百五十八人がグアムの国際貿易センタービルに集い、第一回「世界平和会議」を開催。席上、世界各国のメンバーの団体からなる国際的機構として、SGI(創価学会インタナショナル)が結成されたのである。
 そして、全参加者の総意として懇請され、山本伸一がSGI会長に就任したのだ。
 「生命の世紀」へ、「平和の世紀」へ、歴史の機軸は、大きく回り始めたのである。
 世界の恒久平和を実現するには、一切衆生に尊極無上の「仏」の生命を見いだす仏法の生命尊厳の哲理を、万人万物を慈しむ慈悲の精神を、人びとの胸中に打ち立てなければならない。それが広宣流布である。
 日蓮大聖人は「一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」と仰せである。
 一閻浮提とは、全世界であり、世界広宣流布は絶対にできるとの御断言である。
 しかし、それは、ただ待っていればできるということではない。″この御本仏の御言葉を、虚妄にしてなるものか!″という弟子たちの必死の闘争があってこそ、広宣流布の大前進はあるのだ。
 自身が主体者となって立ち上がるのだ。尊き使命を自覚するのだ。それが地涌の菩薩として立つことなのだ。
 そこに、生の歓喜がみなぎり、崩れざる幸福への道が、境涯革命の道があるのだ。
 大宇宙もわが一念にありと教えているのが仏法である。なれば、傍観者のような姿勢は「仏法を学して外道となる」生き方である。
 そこには生命の躍動もない。空虚な心の闇が広がっている。
 グアムに集った代表は、いずれも各国のリーダーであり、広宣流布をわが使命として立ち上がった闘士たちであった。創価の先駆者であった。
 その一人立った勇者たちが、スクラムを組み、SGIという世界を結ぶ平和の長城の建設に立ち上がったのである。
2  SGI(2)
 一月二十六日、山本伸一は午前十一時過ぎには、世界平和会議の会場となったグアムの国際貿易センタービルに、妻の峯子と共に姿を現した。
 そこはグアムの商業の中心地タムニングにあり、空港にほど近い白亜のビルであった。
 既に世界五十一カ国・地域、百五十八人の代表が集っていた。
 伸一は、まず参加者と共に記念撮影をした。
 民族衣装に身を包み、誇らかに胸を張るメンバーもいた。
 どの顔にも、平和への決意が光っていた。
 決意は大願を成就する種子である。心を定めることから一切は始まる。
 伸一もグアムの人たちと同じように、柄ものの開襟シャツ姿であった。
 このあと、長年にわたって各国の仏法興隆に努めてきたメンバーの代表十一人に、「副理事長」などの称号が贈られた。
 伸一は、それから、急いで白いスーツに着替えた。意義あるこの日の式典には、正装で臨むべきであると考えていたのである。
 この日の参加者は、後世に残る重大な記録として、署名を行うことになっていた。
 その署名簿が、会場の入り口に置かれていた。
 伸一も、ペンを手にした。署名簿には、氏名とともに、国籍を記す欄もあった。
 彼は、氏名欄に「山本伸一」と書いたあと、国籍の欄にはこう記した。
 「世界」――
 周囲の人たちから、感嘆のため息が漏れた。
 この時、彼の胸には、師の戸田城聖が叫んだ「地球民族主義」という言葉が響いていた。
 そして、心で亡き恩師に誓っていた。
 ″先生! 私は全人類の幸福と平和のために、世界の広宣流布に、わが人生を捧げます!″
 伸一の心には、既に国境はなかった。民族の壁もなかった。伸一の国とは、アジアの東に位置する「日本」という小さな島にとどまらず、地球それ自体であった。
 国籍「世界」という記帳は、彼の率直な真情の表れであった。
 「わたしの祖国は全世界であり、わたしの宗教は善を行なうことなのだ」とは、トマス・ペインの信念である。
 伸一も、世界を祖国とし、世界の人びとのために尽くし抜く決意を込めて署名したのであった。
3  SGI(3)
 世界平和会議の会場正面には、地球をデザインしたパネルが広がり、そこに英文で、「平和の波動」「第一回『世界平和会議』」と書かれていた。
 平和――それは、グアムの人びとの痛切な悲願であった。
 アメリカ領のグアム島は、一九四一年(昭和十六年)十二月八日(日本時間)、ハワイへの真珠湾攻撃と同じ日に、日本軍の攻撃を受け、十日に占領された。
 四四年(同十九年)六月、マリアナ沖海戦に勝利した米軍は、グアム島奪還のため、七月二十一日に上陸。すさまじい攻防戦が繰り広げられた。両軍の兵士をはじめ、現地住民も多大な犠牲を強いられたのである。
 日本軍の守備隊は、数日でほとんど壊滅し、生き残った兵隊は、密林や山岳地帯でゲリラ戦を展開した。敗走する日本兵によって、虐殺された現地の人たちもいた。
 この戦争で日本兵は約二万一千人のうち、約一万八千人が死亡。米軍もグアム島奪還のために、約千四百人の犠牲者を出したといわれる。
 歴史的な第一回「世界平和会議」は、正午に開会となった。
 まず、議長団が選出され、続いて開催地グアムのメンバーの代表が英語で開会宣言を行った。
 彼は、山本伸一をはじめ、メンバーのグアムへの来島を歓迎するとともに、世界平和会議の開催を心から喜び、感無量の顔で語り始めた。
 「三十年前、グアム島は、なんの罪もない民衆の生命が、戦禍によって無残にも蹂躙された悲劇の舞台でありました」
 グアムの人たちは、戦争こそ最大の悪であることを、心の底から痛感してきた。
 「人間は善悪を区別する場合にはじめて目ざめるのである」とは、ドイツの哲学者ヤスパースの言葉である。
 グアムの代表は、力を込めて訴えた。
 「グアムの悲惨な歴史を背負った私たちには、最も声高に平和を叫ぶ使命があります。
 私たちは、そう決意して、この日をめざし、仏法という幸福と平和の哲学を人びとに伝えようと、力の限り活動を進めてまいりました」
 広宣流布のために立ち上がるなかに、境涯の大飛躍があり、わが生命は変革され、宿命の転換があるのだ。

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