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日蓮大聖人・池田大作

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第20巻 「懸け橋」 懸け橋

小説「新・人間革命」

前後
1  懸け橋(1)
 さあ、心軽やかに、新しい歩みを踏みだそう。
 人生は、限りある生命の時間との闘争だ。なれば、間断なき前進の日々であらねばならない。
 ロシアの大詩人プーシキンはうたった。 
 「汝は王者なれば ただ一人征け
 自由の大道を自在なる英知もて進め
 その尊き偉業の報いを欲せず
 自らが愛する思想の実をば結びゆけ」
 それはまた、山本伸一の決意でもあった。彼は人類の平和のために、わが生涯を捧げようと、深く心に誓っていた。
 一九七四年(昭和四十九年)九月八日、彼は、モスクワ大学の招待を受け、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦の略称=当時)に向かっていた。ソ連は初訪問である。
 羽田の東京国際空港を発ったのは、この日の午前十一時過ぎであった。
 滞在は十日間で、訪問する主な都市は、首都モスクワと、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)である。
 そして、モスクワ大学をはじめ、ソ連対外友好文化交流団体連合会、文化省、教育省、レニングラード大学(現在のサンクトペテルブルク大学)などを公式訪問することになっていた。
 同行メンバーは、妻の峯子、創価大学の学長、教授、青年部・婦人部の代表、そして、聖教新聞の記者やカメラマンら十人である。
 この訪ソの目的は、教育・文化交流を通して、友好を促進し、平和のための相互理解を深めることにあった。
 国家と国家の関係といっても、最終的には人間と人間の関係に帰着する。真の友好を築くためには、友情と信頼の絆で人間と人間が結ばれていくことが不可欠である。
 ゆえに伸一は、国家というよりも、むしろ、民間次元で交流を深めることが必要であると考えていたのである。
 また、彼は、この訪問で、中国は決して戦争は望んではいないことをソ連の首脳に伝え、中ソの戦争を回避する道を、断じて開かなければならないと、固く心に決めていたのである。
 さらに、米ソ対立、そして東西冷戦という、分断され、敵対し合う世界を、融合へ、平和へと向かわせる、第一歩にしようと、深く決意していたのである。
2  懸け橋(2)
 山本伸一のソ連訪問は、前年(一九七三年)の十二月七日、ソ連科学アカデミー正会員のA・L・ナロチニツキーと準会員のM・P・キムとの出会いが契機となって、具体化していった。
 当時、日ソ両国は、ようやく関係改善の兆しが見え始めたものの、その前途にはさまざまな問題が横たわっていた。
 戦後、日本とソ連は、一九五六年(昭和三十一年)に、国交を正常化したが、六〇年(同三十五年)に日本が新日米安保条約を結ぶと、日ソの関係は冷え切っていった。
 北方領土問題についても、ソ連は、既に解決済みとの立場を取るようになり、返還交渉の道さえ閉ざされてしまった。
 そして、北方水域では日本漁船がソ連によって拿捕される事件が、後を絶たなかった。
 そのなかで、この七三年(同四十八年)十月、田中角栄首相が訪ソし、ブレジネフ書記長と会い、十七年ぶりに首脳会談が行われたのである。
 日ソは、平和条約の締結へ動き始めたかに見えた。しかし、前途は依然として濃い霧に包まれていたといってよい。
 国家による政治や経済次元の交流は、利害の対立によって分断されてしまうことが少なくない。
 だからこそ、平和と友好のためには、民間による、文化、教育、学術などの幅広い交流が不可欠であるというのが、伸一の主張であったのだ。
 彼は、その信念のもとに、日ソの文化交流に力を注いできた。
 六六年(同四十一年)には、民音(民主音楽協会の略称)がソ連のノボシビルスク・バレエ団を日本に招聘したが、伸一は民音の創立者として、その実現のために陰で奮闘を重ねてきた。
 一方、ソ連も、伸一と創価学会に注目し、学会が民衆を組織して日本の新しい潮流を形成してきたことに、大きな関心を寄せていたようだ。
 六三年(同三十八年)には、ソ連科学アカデミーの付属研究機関が発行する雑誌「今日のアジア・アフリカ」の編集局の招きで、青年部の代表が訪ソしている。
 また、六七年(同四十二年)に行われた東京文化祭には駐日ソ連公使らが出席。その翌年には、学会を深く研究・理解しようと、駐日ソ連大使らが総本山を見学に訪れている。
3  懸け橋(3)
 一九七三年(昭和四十八年)の秋であった。
 市民レベルでの日ソの交流窓口の一つとなっていた対文協(日本対外文化協会の略称)などを通して、ソ連から山本伸一に、訪ソの意向があるかどうか、打診があったのである。
 ソ連の日本担当者は、冷え切った日ソ関係の新たな交流のパイプとして、創価学会に期待を託していたようだ。
 伸一は、「日ソの文化交流を促進し、恒久平和を築く一助を担うために、機会があれば訪ソさせていただきます」と答えた。
 そして、その後、次のような要請が寄せられたのである。
 ――十二月に「日ソ歴史学シンポジウム」があり、ソ連の歴史学者が日本を訪問します。
 その学者たちは、創価大学の訪問を希望しており、できれば、そこで、創立者の山本会長にお会いしていただきたい。
 創価大学は、まだ開学三年目であり、最高学年が三年生という大学である。しかし、人間教育の最高学府をめざす新しい大学に、ソ連の歴史学者たちも、強い関心をいだいていたのであろう。
 対文協の関係者も、学会とソ連との交流を積極的に後押ししていた。
 日ソ間交流の新たな柱として、創価学会に、そして、その会長である伸一に、期待を寄せていたようだ。
 対文協の会長を務めていたのは、東海大学の松前重義総長であった。
 松前会長は大学の総長として、伸一の創立した創価大学に注目していたという。
 伸一は、ソ連の歴史学者たちが創価大学を訪問し、自分と会見を希望していることを聞くと、直ちに、創価大学の学長らと相談した。
 「私だけでなく、学生や教授とも、ぜひ、会って、交流していただきたいと思う。
 二十一世紀に羽ばたく創大生にとって、イデオロギーや社会体制の壁を超えて、ソ連の学者と交流をもつことは、人生の大きな財産になるにちがいない。これは、大事な機会です。
 大学として、正式にご招待し、記念講演も行っていただくようにしてはどうだろうか」
 伸一は、世界を担う創大生のために、さまざまな触発の機会をつくりたかったのである。

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