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日蓮大聖人・池田大作

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第20巻 「友誼の道」 友誼の道

小説「新・人間革命」

前後
1  友誼の道(1)
 新しい時代の扉は、待っていては開きはしない。自らの手で、自らの果敢な行動で、勇気をもって開け放つのだ!
 山本伸一は、未来に向かって歩き始めた。
 一九七四年(昭和四十九年)五月三十日――。
 午前十時半、伸一を団長とする創価学会第一次訪中団は、中華人民共和国を訪問するため、イギリス領・香港(当時)の九竜(カオルン)を列車で出発した。
 一時間ほどで香港最後の駅となる羅湖(ローウー)に着き、ここで通関の手続きを済ませた。
 羅湖駅から百メートルほど歩き、中国の深セン(シェンチェン)駅に入るのである。
 七二年(同四十七年)に、日中の国交は正常化したが、まだ、日本から中国への直行便はなかった。北京へ行くにも、香港経由で入るしかなかったのである。
 訪中団の構成は、団長の伸一、妻の峯子、副団長で副会長の山道尚弥、秘書長で学生部長の田原薫、女子部長の吉川美香子らのほか、通訳、聖教新聞の記者、カメラマンなど十一人であった。
 羅湖に着くと、九竜を発つ時に降っていた雨は上がり、空はうっすらとした雲に覆われていた。
 伸一は、深セン駅へと続く道を歩きながら、日中交流の橋を架けるために人生をかけてきた先人たちとの語らいを、思い起こしていた。
 「LT貿易協定」を結び、日中交流の窓を開いた高碕達之助は、六三年(同三十八年)九月、伸一に語った。
 「私の人生の時間は限られている。どうしても新しい力が必要だ。あなたには、日中友好の力になってもらいたい!」
 高碕は当時七十八歳。亡くなる五カ月前のことである。
 また、七〇年(同四十五年)三月、日中の関係改善に生命をかけて取り組んできた八十七歳の松村謙三は、伸一に、懸命に訴えた。
 「あなたは中国へ行くべきだ。いや、あなたのような方に行ってもらいたい」
 伸一は、そうした先人たちの言葉を遺言として受け止めた。
 そして、日中友好の「金の橋」を架けることを、自らの使命と定めてきたのである。
 彼は、一歩一歩、踏みしめるように、深セン駅に向かって歩みを運んだ。
2  友誼の道(2)
 山本伸一の胸には、戸田城聖が一九五六年(昭和三十一年)の年頭に詠んだ和歌が、朗々と響いていた。
 雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん
 伸一は、その歌を目にした時、アジアの民衆の平和と幸せを願う、師の熱い心を痛感した。
 それは、戸田大学の講義などでも、折々に語られていた真情であった。
 以来、彼は、東洋の大国・中国の人びとの幸福のために、弟子として実際に何をすべきかを、真剣に、具体的に、考え始めた。
 思索を重ねた結果、中国と友好を結び、確かなる交流の道を開かねばならぬと、心に深く決意したのである。
 大願は、一代では成就できない。弟子が師の心を受け継いで立ち上がり、実現していくのだ。
 そこにこそ、弟子の使命があり、師弟の大願成就がある。
 伸一は、時を待った。
 そして、一九六四年(同三十九年)十一月、公明党の結党に際して、彼はこう提案した。
 「外交政策をつくるにあたっては、中華人民共和国を正式承認し、中国との国交回復に、真剣に努めてもらいたい。これが創立者である私の、唯一のお願いです」
 さらに、その四年後の六八年(同四十三年)九月に行われた第十一回学生部総会で、日中問題に言及し、あの歴史的な「日中国交正常化提言」を行ったのである。
 一、日本は、中国の存在を正式に承認し、国交を正常化する。
 一、中国の国連での正当な地位を回復する。
 一、日本は、中国と経済的・文化的な交流を推進する。
 これらを骨子とした画期的な提言であった。
 当時、中国には「プロレタリア文化大革命」の嵐が吹き荒れ、国際世論は、中国に批判の声を高めていた時である。
 そのなかで、中国との国交正常化や中国の国連での地位の回復を訴えるには、非難の集中砲火を浴びることを、覚悟しなければならなかった。
 「先覚者は、つねに故国に容れられず、また同時代人からも迫害を受ける」とは、文豪・魯迅の洞察である。
3  友誼の道(3)
 山本伸一は、世界平和の実現をめざすうえで、そのカギを握るのが、今後の中国の行方であると考えていた。
 というのは、世界平和の不安定な要素となっているのが、アジア情勢であり、その根本原因は、貧困と、自由圏と共産圏の隔絶・不信・対立にあったからだ。
 そのなかで、日本が率先して中国との友好関係を樹立することは、アジアのなかにある東西の対立を緩和することになるにちがいない。
 そして、それは、やがては東西対立そのものを解消するに至ることを確信して、伸一は「日中国交正常化提言」を行ったのである。
 伸一のこの提言は、朝日、読売、毎日をはじめ、新聞各紙に報道され、さらに、中国にも打電されたのである。
 提言の反響は、極めて大きかった。
 中国文学者の竹内好は、国交回復運動に「一縷の光りを認めた」(総合月刊誌『潮』一九六八年十一月号)と叫んだ。
 また、日中友好を推進する政治家の松村謙三は、「百万の味方を得た」と語った。
 だが、その一方で、伸一は、激しい非難の嵐にもさらされたのだ。
 嫌がらせの脅迫電話や手紙、街宣車を繰り出しての攻撃もあった。なぜ宗教者が″赤いネクタイ″をするのか、との批判もあった。
 外務省の高官も、強い不満の意を表明した。
 しかし、彼は、決して恐れなかった。命を捨てる覚悟なくしては、平和のための、本当の戦いなど起こせないからだ。
 伸一は、恐れるどころか、むしろ、勇んで日中の関係改善のために、第二、第三の言論の矢を放った。
 それが、戸田から薫陶を受けた師子の魂であるからだ。
 この年の学術月刊誌『アジア』の十二月号には、学生部総会の提言をさらに掘り下げ、「日中正常化への提言」と題する論文を発表した。
 そして、翌年の六月には、聖教新聞に連載中の小説『人間革命』のなかで、日中国交正常化をもう一歩進め、「日中平和友好条約」を、万難を排して結ぶべきであると訴えたのである。
 寄せ返す波が、巌を削るように、間断なき闘争が、不可能の障壁を打ち崩していくのだ。

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