Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第19巻 「凱歌」 凱歌

小説「新・人間革命」

前後
1  凱歌(1)
 「私の僚友よ しかし私達は歩きます、自由に、全地球を隈なく、私達の消し難き足跡を時と各時代の上に印するまでここにかしこに旅をつづけます」
 アメリカの詩人ホイットマンは、こう叫んだ。
 それはまた、世界広宣流布の第二章の幕を開きゆこうとする山本伸一の決意でもあった。
 しかし、その彼の行く手に、一つの障壁が立ちはだかっていたのだ。
 一九七四年(昭和四十九年)三月十二日、伸一は、アメリカのロサンゼルス近郊にあるマリブ研修所の庭に立った。
 芝生の向こうには太平洋が広がり、寄せ返す波は陽光に輝いていた。
 伸一は拳を握り、大海原を見つめながら、傍らの妻の峯子に言った。
 「今日になってもビザ(査証)が出ないのでは、やむをえないな……。
 ブラジル行きは中止しよう」
 峯子は、憂いをたたえた目で伸一を見ながら、静かに頷いた。
 「仕方ありませんね。
 でも、ブラジルの皆さんのことを思うと、胸が痛みますね……」
 伸一は、アメリカ、ブラジル、ペルーの三カ国を訪問する予定で、三月七日に日本を発った。各国のメンバーの激励と、教育・文化交流を推進するためであった。
 アメリカではサンフランシスコに到着したその日に、サンフランシスコの最高指導会議に出席。
 翌八日には、招聘を受けていたカリフォルニア大学バークレー校を訪問し、アルバート・H・ボウカー総長と会談した。
 九日には、サンフランシスコ・コミュニティー・センターの開所式等に臨み、十日にロサンゼルスに移動した。
 そして、マリブ研修所を中心に、アメリカの最高協議会に出席するなど、連日、激闘が続いていたのである。
 当初の予定では、三月十三日にブラジルに入国し、サンパウロでの世界平和文化祭などの諸行事に出席することになっていた。しかし、ブラジルに入国するビザが下りないのだ。
 大聖人は「からんは不思議わるからんは一定とをもへ」と仰せである。
 広宣流布の道は、予期せぬ障害が打ち続く険路である。深き覚悟なくして踏破はない。
2  凱歌(2)
 山本伸一たちのブラジル入国のビザは、二月中旬に申請しており、月末には発給されるはずであった。
 ところが、三月に入っても発給されなかったのである。
 学会本部の担当者は、横浜のブラジル総領事館に、何度も足を運んだ。
 総領事館では、そのつど、リオのカーニバルで休日が続いていたことや、新大統領の就任式があることを理由にあげ、事務手続きの遅れによるものと説明した。
 報告を聞いた伸一は、八年前の一九六六年(昭和四十一年)三月に、ブラジルを訪問した折の状況が思い起こされてならなかった。
 ――この訪問中、伸一には、常に政治警察の監視の目が光っていた。南米文化祭が行われた時にも、会場には警察官が並び、まるで戒厳令でも敷かれたような、ものものしい雰囲気であった。
 当局が創価学会を、宗教を擬装した政治団体であり、社会の転覆をもたらす危険な団体であると、誤解していたのだ。
 アメリカの一部のマスコミが、世界征服を狙う教団であるなどと、偏見に満ちた報道をしてきたことを、真に受けてしまったようだ。
 また、学会に敵意をいだく日系人の他宗派有力者らが、政府や警察に、「学会は共産主義者たちとつながっている危険な団体である」などと吹聴していたのだ。
 当時、軍事政権であったブラジル政府は、政治・思想的な動きには、ことのほか警戒心を強めていただけに、政治に絡めて学会を中傷するデマに乗ってしまったのだ。
 「人を殺して血もみせない武器がある。それはデマを製造することだ」とは、文豪・魯迅の怒りの叫びである。
 伸一は、また今度も、背後に学会を排斥しようとする力が働いているのではないかと直感した。
 八年前の訪問の折、メンバーは誓い合った。
 ″山本先生に、こんな思いをさせて申し訳ない。
 次に先生をお迎えする時には、政府の関係者も学会を正しく理解し、国をあげて先生を歓迎するような状況を、必ずつくろう″
 そして、メンバーは、学会の真実と正義を社会に示そうと、懸命に努力してきた。しかし、誤解の壁は、あまりにも厚かったのである。
3  凱歌(3)
 ブラジルのメンバーは、一九六六年(昭和四十一年)以来、八年ぶりとなる山本伸一の訪問を、待ちに待っていた。
 ところが、伸一が日本を発つ前日の三月六日になっても、一行のビザの発給はなかった。
 伸一は、予定通りに出発し、アメリカで、ブラジル総領事館にビザを再申請した。しかし、ビザは発給されぬまま一日一日と過ぎていった。
 ブラジルの理事長になっていた斎木安弘も、山本会長一行のビザが下りない理由を突き止めようと、ブラジル政府の関係者らと会っていった。
 すると、またしても、「山本会長の同行者に危険人物がいる」などといった根も葉もない情報が一部の日系人から流され、政府もそのデマに踊らされていることが判明してきたのである。
 斎木も、彼の妻の説子も、愕然とした。
 ―伸一は、アメリカで奮闘を続けながらも、ブラジルのことが頭から離れなかった。
 そして、とうとうブラジル入りを予定していた前日の、三月十二日を迎えたのである。
 いつまでもビザを待っていて、伸一のスケジュールが決まらなければ、ブラジルのメンバーにも迷惑がかかってしまう。
 伸一は、悩み考えた末に、断腸の思いで、ブラジル行きの「中止」を決断したのである。
 伸一は、マリブの研修所で、事務室に戻ると、同行の幹部らに告げた。
 「ブラジル行きは中止にするよ」
 斎木には電話で、残念だろうが、これも、すべて「御仏意」であり、「きっと何か大きな意味があるはずだ」と、懸命に訴えた。
 伸一には、斎木の、悔しく、無念な胸のうちが、痛いほどよくわかった。だからこそ、必ず変毒為薬してほしかった。いな、一切を変毒為薬できるのが妙法である。
 伸一は、強い語調で言った。
 「勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。
 ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大飛躍の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ」

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