Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第18巻 「師子吼」 師子吼

小説「新・人間革命」

前後
1  師子吼(1)
 原点をもつ人は強い。
 原点を忘れるな。
 原点を忘れなければ、人間は、進むべき信念の軌道を見失うことはないからだ。
 一九四五年(昭和二十年)七月三日。
 ギギィーと音をたてて刑務所の鉄の扉が開き、丸縁メガネをかけた浴衣姿の男が出てくる。
 その顔はやつれていたが、目には毅然とした光があった。待っていたモンぺ姿の女性が駆け寄る。妻である……。
 軍部政府の弾圧によって捕らえられていた戸田城聖の出獄風景である。それは、創価学会の新生の原点が刻まれた、歴史の瞬間であった。
 山本伸一は、一九七三年(同四十八年)の七月七日午後、東京・世田谷区にある東宝スタジオの試写室で、スクリーンに目を凝らしていた。
 彼の小説『人間革命』が遂に映画化され、その完成試写会が行われたのである。
 伸一が法悟空のペンネームで聖教新聞に連載してきた『人間革命』は、人類の幸福と平和を願い、広宣流布に一人立った戸田城聖の人生の歩みを描いた作品である。
 終了までには、十余巻を予定していたが、この時、連載は第八巻が終了し、八月の一日には、その単行本が発刊される運びとなっていた。
 伸一は、『人間革命』の映画化によって、思師の正義と偉業を広く社会に知らしめることができると思うと、嬉しく、感慨深かった。
 しかし、その半面、自分の拙い作品が、映画になったことへの気恥ずかしさもあった。
 思えば、小説『人間革命』映画化の要請が最初にあったのは、六、七年ほど前のことであった。
 東宝の著名なプロデューサーである田中友幸から、映画化の意向を打診されたのだ。
 田中は、黒澤明監督の名作「用心棒」「赤ひげ」や特撮映画「ゴジラ」などの映画の製作で知られていた。
 彼は、伸一の小説『人間革命』単行本の一・二巻を読み、仏法の師弟に鮮烈な感動を覚えた。
 また、創価学会は、既成の宗教団体とは異なる独自の進歩的な思想をもっていることを知り、驚嘆した。それは、自らの宗教観を覆す、新しき発見でもあったようだ。
2  師子吼(2)
 田中友幸は、創価学会に、かくも多くの人、しかも大勢の青年たちが集い、一つの共通の信念のもとに団結し、喜々として活動に励んでいることに、強い関心をいだいていた。
 そして彼は、その解答を、小説『人間革命』に見いだしたのだ。
 さらに、仏法の生命論や、戸田城聖の哲学にも、深い興味をもったのである。
 山本伸一は、田中友幸が、どんな作品を手がけてきたかもよく知っていたし、プロデューサーとしての力量も、高く評価していた。
 しかし、映画化には、ためらいがあった。
 『人間革命』は、恩師である戸田城聖の真実を後世に残すとともに、創価学会の歩みを通して、日蓮仏法の哲理を伝えるために執筆した小説である。
 そのテーマを離れた商業映画となることを、彼は憂慮したのだ。
 伸一が、田中と初めて会ったのは、一九七〇年(昭和四十五年)に大阪で行われた、万国博覧会であった。
 八月、万国博で三菱未来館を訪れた伸一を案内してくれたのが、このパピリオンの総合プロデューサーを務めた田中であった。
 館内を見学したあと、貴賓室で伸一は田中と歓談した。
 伸一が、田中の映画の思い出を話すと、田中は小説『人間革命』を読んで、どれほど感動したかを、情熱を込めて語っていった。
 話は尽きなかった。この日、二人は、東京で、また会うことを約して別れた。
 この年の十一月、伸一は、東京の聖教新聞社で田中と会った。
 この時、田中から直接、小説『人間革命』を映画化したいとの、強い要請を受けたのである。
 伸一は、一週間ほど、思案した末に、″この人ならば、原作の真意を汲んだ映画にしてくれるだろう″と考え、映画化を了承したのである。
 結論は、直ちに田中に伝えられた。
 御礼を述べる田中の声は震え、目には、うっすらと涙さえ滲んでいた。
 映画化に向けて、第一歩が踏み出された。
 さっそく学会からも、副会長の秋月英介や広報室長の山道尚弥など、数人のメンバーが加わり、「『人間革命』製作委員会」が発足した。
3  師子吼(3)
 映画「人間革命」製作の最初の課題は、誰に脚本を依頼するかということであった。
 田中が考えたのが橋本忍であった。
 橋本はブルーリボン賞の脚本賞を受賞した脚本家で、黒澤明監督の「羅生門」「生きる」「七人の侍」「どですかでん」などのシナリオを手がけてきた。
 田中は、橋本とは、何度も一緒に仕事をして、気心も知れていたし、何よりも、人間の内面世界を描き出す橋本の脚本家としての力量を、高く評価していたのである。
 だが、橋本は、すぐには回答しなかった。小説『人間革命』をはじめ、創価学会、仏法などについて研究し、結論を出したいというのである。
 橋本の研究は徹底していた。まず、ノートを取りながら、小説『人間革命』を、何度も何度も読み返した。
 さらに、学会の歴史や仏法の法理に関する出版物などを集めては、丹念に目を通した。
 学会員とも会って、話を聞いた。
 年が明けた一九七一年(昭和四十六年)の一月半ば、橋本は田中友幸の自宅を訪ねた。
 橋本は思案に暮れていた。
 「難しいですね。何を素材にしてまとめたらよいのか、まだ、はっきりしません。仏教の解明のような映画になったら、堅苦しくてしょうがないし……」
 対話は、深夜二時まで続いた。
 橋本との語らいが終わって一時間ほどしたころである。田中は発熱し、胸の痛みを覚えた。
 救急車で病院に運ばれた。
 急性肋膜炎であった。
 以来、二カ月の入院生活を余儀なくされたのである。
 田中は病床にあっても、映画「人間革命」の製作のことが頭から離れなかった。
 二月上旬、病院に来た橋本が、田中に言った。
 「なんとか、やれそうです。この映画で、闇のなかのような今の日本に何かを示すために、『心』という問題を探究してみようと思います。
 でも、脚本の執筆には、かなり時間がかかりそうです」
 田中の目が輝いた。
 「そうか。できるか。ありがとう!」
 それは、病床の田中にとって、何ものにも勝る活力源となった。

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