Nichiren・Ikeda
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1 緑野(1)
太陽が、地上に遍く光を注ぐように、すべての地域に励ましの光を、触発の光を、注がねばならない。あの地、この地に、人材の緑野を開くために――それが、山本伸一の固い決意であった。
ブロック幹部を中心とした東京各地の記念撮影は、この一九七三年(昭和四十八年)五月の豊島区をもって、ひとまず終了した。
東京は今、「広布第二章」の大空へ、雄々しく飛翔していった。
″次は、各方面、各県の強化だ! これまであまり訪問できなかった地域に光を当てて、一県一県、堅固な牙城に仕上げていこう!″
伸一は、ヨーロッパ訪問から帰国して九日後の六月五日には、早くも福井県の武生市を訪れたのである。市の体育館で行われる福井県幹部会に出席するためであった。一年ぶり五度目の福井県訪問である。
彼が最初に福井の天地に立ったのは、学会でただ一人の総務として、事実上、広宣流布の指揮を執っていた一九五九年(昭和三十四年)三月のことであった。この武生市での指導会に出席したのである。
会場となった講堂は、全県下から集った千数百人の同志で埋まり、熱気に満ちあふれていた。
伸一は、指導会では、「四条金吾殿御返事」(御書1143㌻)の講義に続いて、質問会も行った。さらに、終了後には、地元の地区部長宅で開かれた幹部との懇談会に出席し、全力で激励にあたったのである。
そして翌日、会いに来た数十人のメンバーを、自分のカメラで撮影して励ましたことも、懐かしい思い出であった。
伸一は、福井県には、特別な思いがあった。福井県は幾度となく、災害に見舞われてきた地であったからだ。
戦時中の一九四五年(昭和二十年)七月には、大空襲によって敦賀・福井市内は焦土と化す、壊滅的な打撃を受けた。
それから三年後、福井地震に襲われたのだ。
この時の死者は、約三千八百人。全壊家屋は、三万六千戸を超えたといわれる。
地震の揺れの激しさから、気象庁は震度階級に最強の揺れとして、「震度七」を追加している。
伸一は、福井地震のニュースに、胸を痛めたことが忘れられなかった。
2 緑野(2)
福井地震一カ月後の一九四八年(昭和二十三年)七月、今度は豪雨によって九頭竜川左岸の堤防が決壊し、福井市内に濁流が流れ込んでいる。
さらに福井県は、一九五〇年(同二十五年)、五三年(同二十八年)にも、台風による水害で多くの犠牲者を出したほか、三百戸以上が全焼するという大火もあった。
山本伸一は、その悲惨な災禍を思うと、痛ましくて仕方なかった。また仏法で説く「国土」というものの宿命を痛感せざるをえなかった。
しかし、福井の人びとは、畳みかけるように襲った災害に負けず、敢然と立ち上がったのだ。
伸一は、そこに、福井人の潜在的な不屈の強さを感じた。その人びとが真実の仏法に目覚め、広宣流布に奮い立つならば、自らを人間革命し、さらには、「国土」の宿命転換をも成し遂げていくことは間違いない。
御聖訓には「わざはひも転じて幸となるべし」と仰せである。宿命転換のための妙法である。
その新しい歴史の幕を開こうとの決意で、この一九五九年(昭和三十四年)三月、伸一は福井指導の第一歩を印したのである。
この時、山本総務の指導に接した同志は、地域広布を担うわが使命を深く自覚し、赤々と闘魂を燃え上がらせた。
福井県は、その後も何度か、災害に襲われた。伸一は、そのつど、電話で、手紙で、あるいは、上京したメンバーと直接会っては、全精魂を傾けて励ましてきた。
三度目となる一九六七年(昭和四十二年)の訪問では、福井本部幹部会に出席し、「無疑曰信」(疑い無きを信と曰う)について訴えた。
「仏法の法理に照らして、やがて、私たちが幸福になることは絶対に間違いない。したがって、何があっても、決して御本尊を疑うことなく、最後まで、無疑曰信の信心を貫いてください。
不信というのは、生命の根本的な迷いであり、元品の無明です。それは不安を呼び、絶望へと自身を追い込んでいきます。その自分の心との戦いが信心です。
その迷いの心に打ち勝つ力が題目なんです。ゆえに、題目第一の人こそが、真の勇者なんです」
彼は、わが生命を注ぐ思いで叫んだ。
3 緑野(3)
山本伸一の四度目の福井県訪問は、一九七二年(昭和四十七年)三月の敦賀市での記念撮影会であった。
その折、伸一は、現実の生活の場所を去って、彼方に幸福を求めるのではなく、自分が今いる、その場所で頑張り抜き、真実の仏法の力を証明していくことが大事であると強く訴えていった。
日蓮大聖人は「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去つて彼に行くには非ざるなり」と仰せである。妙法を持ち、広宣流布に邁進していくならば、自分のいるその場所こそが、悟りの場所となり、常寂光土になるというのが、真実の仏法の教えなのだ。
さらに伸一は、福井の同志が郷土の幸福と繁栄を築く「広布第二章」の新出発をするために、一年後の訪問を約束し、前進の目標を示したのだ。
そして、この五度目の福井県訪問となったのである。
メンバーは伸一を迎える日をめざして、懸命に弘教に汗を流してきた。
自分たちの手で、「国土」の宿命を転換しようと、皆、必死であった。
伸一の訪問が決まってから、大ブロック一世帯の折伏を実らせ、この日を迎えたのであった。
車窓には、美しい緑野が広がっていた。
山本伸一が県幹部会の会場がある武生駅に着いたのは、六月五日の午後四時過ぎであった。この瞬間から、彼の渾身の激励は開始された。
まず、駅の改札を出たところで、あいさつしてくれた子ども連れの婦人部員を励ました。
そして、そこに集まって来た数人の女子中学・高校生に声をかけた。
彼女たちは、敦賀の鼓笛隊メンバーで、一般参加者として幹部会に出席するのだという。
伸一は言った。
「そうか鼓笛隊か。いつもありがとう。勉強も頑張るんだよ。それからお母さんに心配かけないようにね」
さらに、一人ひとりと握手を交わした。
「また、会場でお会いしましょう。その時、ヨーロッパのお土産の絵葉書を差し上げます」
伸一は、車に乗ってからも、窓を開け、彼女たちに手を振り続けた。
一瞬の出会いをいかに生かすか――彼は、常に真剣勝負であった。