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日蓮大聖人・池田大作

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第16巻 「羽ばたき」 羽ばたき

小説「新・人間革命」

前後
1  羽ばたき(1)
 「明日なすべき事あらば、今日のうちにせよ」十八世紀のアメリカの政治家であり、科学者であるベンジャミン・フランクリンは叫んでいる。
 勝利の栄冠は、時を逃さず、先んじて行動する人の頭上にこそ輝く。明日の勝利の因は、今、この時の、決意と行動にこそあるのだ。
 創価学会は、正本堂建立を節として、万代の広宣流布の基盤をつくり上げようと、力の限り、前進に次ぐ前進を重ねていた。
 一九七二年(昭和四十七年)の五月二十八日、欧米訪問から帰国した山本伸一は、休む間もなく六月には、関西・四国訪問を敢行し、さらに、北海道に飛んだ。
 七月の九日からは、宮城での大学会結成式や、山形、秋田、岩手の記念撮影会などに出席するため、東北訪問が予定されていた。
 九日の午後一時、伸一は、上野発の特急で、仙台に向かった。
 車中、彼は、心で、真剣に題目を唱え続けていた。東北北部を襲った豪雨で、甚大な被害が出ていたのである。
 新聞各紙の朝刊には、河川が増水し、秋田の能代市や青森の弘前市などで計一万三千人が避難したことや、秋田の角館付近で桧木内川が氾濫し、橋が流され、周辺地域も水浸しになっていることなどが報じられていた。
 この七月は大雨が続き、「昭和四十七年七月豪雨」と呼ばれ、全国各地で大きな被害を出したのである。
 まず、七月三日から六日にかけて、九州、四国方面に局地的な大雨が降った。山崩れ、崖崩れが発生し、二百人近い死者、行方不明者が出ていた。
 そして、七日から九日にかけては、北日本で、梅雨前線の上を低気圧が通過したため大雨となり、九日には、秋田県などで、河川の氾濫による浸水害が多発したのである。
 伸一は思った。
 ″今回は、被災状況によっては、記念撮影会を中止せざるをえない県もあるにちがいない。
 ともかく、最も大変な事態であるからこそ、自分が現地を訪れ、全精魂を傾けてメンバーを激励しよう。苦悩している同志のもとに、真っ先に走るのだ″
2  羽ばたき(2)
 九日の夕方、山本伸一は仙台に着いた。
 東京は曇りであったが、仙台は雨が降り続いていた。
 伸一は、集中豪雨による各地の被害状況を詳しく調べ、報告するように指示したあと、東北大学会の二期の結成式に出席した。
 その懇談の途中、何度も、伸一のもとに、メモが届き、刻々と変化していく被害状況が報告されたのである。
 この九日の夜半になると、梅雨前線が南下したことから、再び西日本で大雨が降り、中国地方や九州の中・北部で、洪水などを引き起こした。
 さらに、その後、愛知や岐阜など、中部地方でも大雨が降り、山崩れ、崖崩れ、河川の氾濫が相次ぎ、多数の死者、行方不明者を出すことになった。
 東北では、翌十日に山形で、十二日には秋田で、そして、十四日には岩手で、伸一が出席して記念撮影会が行われることになっていた。
 このうち、大雨による被害が最も大きかったのが、秋田県であった。
 特に、県北部の山本郡二ツ井町では、九日の午前八時ごろ、米代川の水があふれて、町の七〇パーセントが水浸しになった。
 さらに、午後一時半ごろ、木材の町として知られる能代市で米代川の堤防が決壊し、家々は濁流に襲われ、四千人ほどが被害にあっていた。
 この洪水によって国道も不通となり、国鉄(当時)奥羽線も運転が打ち切られ、五能線も不通となったのである。
 記念撮影会の準備を進めてきた秋田の幹部たちは、県北部で洪水の被害が広がっていることを知ると、会館に集まり、記念撮影会の開催をめぐって協議を重ねた。
 被災地にも、県の幹部が急行した。
 秋田の同志たちは、この記念撮影を最大の希望とし、この日をめざして仏法対話に、地域貢献に全力を注いできた。
 それだけに、被災地から入る連絡も、「記念撮影には、絶対に駆けつけます!」と意気軒昂であった。
 しかし、被害は甚大である。最優先すべきは皆の安全であり、復興作業である。
 緊急の時に、感情に流されず、的確な判断を下すことこそ、リーダーの責務といってよい。
3  羽ばたき(3)
 秋田の幹部たちは、協議を重ね、被災地域の同志の現状から考え、「今回の記念撮影会は、涙をのんで中止とさせていただこう」ということになった。
 その意向を聞いた山本伸一は、直ちに、県の幹部たちに伝言した。
 「賢明な判断です。こういう時に、皆に無理をさせ、負担をかけてはならない。今は、全員が心を一つにして、復興に全力を尽くす時です。
 幹部の皆さんは一刻も早く、被災した方々の激励にあたってください」
 その夜、伸一は、仙台の東北文化会館で真剣な祈りを捧げた。
 秋田をはじめ、東北の同志が、さらに、再び豪雨となった西日本の同志たちが、無事であるように、彼は、強盛に唱題したのである。
 また、伸一は、各方面や県の幹部に対して、至急、救援態勢を整え、被災地のメンバーの激励に全力であたるよう徹底していった。
 彼に同行していた幹部の一人が尋ねた。
 「十二日の秋田での記念撮影会はなくなりましたが、明日の山形訪問のあと、スケジュールは、どのように考えればよろしいでしょうか」
 間髪を入れず、伸一は答えた。
 「記念撮影会はなくなったが、私は、秋田へは行きます!」
 「しかし、豪雨でかなり混乱しているようですが……」
 すると伸一は、毅然として言った。
 「だから行くんです!
 皆、記念撮影会もなくなり、暗い気持ちでいるでしょう。また、豪雨の被害も大きいだけに、さぞかし心細い気持ちでいるにちがいない。
 そういう時こそ、最も大変な人たちのところへ、万難を排して足を運ぶんです。それが真のリーダーです。
 一番、苦しんでいる時に励まさずして、いつ励ますんですか。
 何年もたってから現地に行って、『水害に負けずに頑張ってください』と言うんですか。
 何事にも、時がある。今こそ、生命を削る思いで、秋田の同志を激励すべき時なんです。私は行きます」
 苦しんでいる同志のために、幹部が率先して、迅速に励ましの手を差し伸べる――そこに学会の強さがあり、創価の人間主義の輝きがある。

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