Nichiren・Ikeda
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1 対話(1)
紺碧の空に吸い込まれるように、ジェット機はグングンと高度を上げていった。天空の太陽を浴びて、銀翼はまばゆく光り輝いていた。
一九七二年(昭和四十七年)四月二十九日の午前十一時過ぎ、山本伸一は、東京・羽田の空港を飛び立ち、モスクワ経由で、パリへと向かった。
上昇を続けるジェット機の轟音を聞きながら、伸一は思った。
″エンジンを全開にして、向かい風のなかを突き進む――この烈風との激しい闘争があってこそ、重い機体は浮かぶ。広宣流布の飛翔もまた、苦難の大風に向かって、全力で突き進んでいく以外にない″
伸一の今回の訪問先は、フランスのパリ、イギリスのロンドン、そして、アメリカのワシントン、ロサンゼルス、ホノルルであり、期間は約一カ月の予定であった。
主な行事としては、新しいパリ本部の開館式、イギリスでは、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学の訪問、アメリカでは、ワシントン会館の訪問や世界平和文化祭への出席などが予定されていた。
そして、何よりも、今回の旅の最大の目的は、イギリスの歴史学者であるアーノルド・ジョーゼフ・トインビー博士との対談であった。
大著『歴史の研究』で知られる博士は、独自の史観をもって文明興亡の法則を体系化し、「地球人類史観」ともいうべき歴史観を打ち立てた。
まさに、二十世紀を代表する歴史学者である。
現代文明の、そして、人類の未来を憂え、高等宗教の必要性を訴える博士の著書を、伸一も、真剣に熟読・研究し、広い視野と深い洞察に富んだ歴史観に、大きな感動を覚えてきた。
――トインビー博士は一八八九年(明治二十二年)四月、ロンドンに生まれている。
博士には、彼が生まれる六年前に、三十歳の若さで他界した、優秀な伯父がいた。オックスフォード大学で教鞭を執り、「産業革命」という歴史学上の概念をつくりあげたことでも知られる、著名な経済学者アーノルド・トインビーである。
この″アーノルド伯父さん″の名が、甥にあたる博士に受け継がれたのである。
2 対話(2)
アーノルド・ジョーゼフ・トインビー博士の父ハリー・バルピー・トインビーは、医師として働く傍ら、社会奉仕活動に情熱を注いでいた。
過酷な運命をたどった文明に向けられる、温かな眼差しを秘めたトインビー博士の歴史観は、社会的な弱者を守るために献身し抜いた父の生き方と、決して無縁ではあるまい。
親の生き方にこそ、最良の教育がある。
また、母のセアラ・イーデス・トインビーは、ケンブリッジ大学に学び、教科書の著作もある歴史家であった。
彼女は、博士の幼少期に、ベッドでイギリスの歴史を語っては寝付かせたという。
起伏に富んだイギリスの歴史を、壮大な物語として語り聞かせる母によって、アーノルドの歴史への興味が、目覚めていったのである。
彼は、感受性の強い聡明な少年ではあったが、決して、いわゆる″優等生″ではなかった。
十歳の時、アーノルド少年は、パブリックスクールに進むための予備学校である、寄宿学校に入学する。
しかし、その生活にはなかなか馴染めず、学校がいやでたまらなかった。当初は、先輩からいじめられ、悔しい思いもしたようだ。重いホームシックにもかかった。
博士は回想している。
「私にとっては学期の始まる日は、死刑を宣告された囚人に対する死刑執行日のごとくであった。この恐ろしい瞬間に向かって時がどんどんたつにつれて、私の苦悩は絶頂に達した」
苦悩のない人生などない。その苦悩に、忍耐強く立ち向かっていくなかでこそ、人間は鍛えられ、磨かれていくのだ。
博士は、パブリックスクールのウィンチェスター校で奨学金を受けるための試験にも挑んだ。
一年目は合格せず、補欠に止まった。二年目にようやく三番で合格を果たしている。
試験を前に、緊張する彼に、両親は言った。
「ベストを尽くせばいいんだ。それ以上のことは誰にもできはしない」
ベストを尽くすことならできる――彼はホッとした。胸が晴れた。
心の闇を払い、胸の重石を取り除き、活力をわき出させてこそ、真実の励ましといってよい。
3 対話(3)
トインビー博士は、オックスフォード大学に進んで古代史を学び、卒業後も研究員とチューター(学生指導教師)を兼ねて母校に残った。
研究のための旅行中に汚染された水を飲んだ博士は、赤痢になる。しかし、結果的には、それが彼の命を救った。一九一四年(大正三年)に、第一次世界大戦が始まるが、軍隊では「不合格」となったのだ。
この戦争で、良き友人たちを次々と失ったのである。
その多くの友の写真を、博士は生涯、座右から離さなかった。
やがて外務省の政治情報部に入り、一九一九年(同八年)、大戦終結のパリ講和会議に、イギリス代表団の中東地域専門委員として出席する。
その後、ロンドン大学教授となり、二一年(同十年)には、「ギリシャ・トルコ戦争」の視察に出かけた。
旅費の調達のため、イギリスの新聞「マンチェスター・ガーディアン」の特派員を兼ねての視察であった。
彼は、一方の主張だけを取り上げるのではなく、ギリシャの言い分にも、トルコの言い分にも公平に耳を傾けた。
ヨーロッパ人には、長い間、トルコ人に対する根強い偏見があった。
しかも、この六年前には、オスマン・トルコによるアルメニア人の虐殺があったことから、人びとは、トルコ人に憎悪と恐怖を感じ、「偏見」にとらわれていた。
″それだけに、トルコ人の言い分を、よく理解する努力が必要だ!″
彼は、トルコ人住民が虐殺された街にも、足を運んだ。トルコ人難民の悲惨な実情も視察し、真摯に話を聞いた。
そして、事実をありのまま原稿にして、「マンチェスター・ガーディアン」紙に送った。
同紙は、それをそのまま紙面に掲載した。すると、囂々たる非難の集中砲火が浴びせられた。
「トルコ人に同情的であるとは何ごとだ!」
真実の正論に対する反動であった。
ボリビアの詩人フランツ・タマーヨは、こう叫んでいる。
「悪が存在するとき、究極の悪とは、悪それ自体ではない。それは、悪の存在を知りながら、隠すことである。悪を見ていながら、口に出して言わないことである」