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日蓮大聖人・池田大作

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第15巻 「創価大学」 創価大学

小説「新・人間革命」

前後
1  創価大学(1)
 雲間から差し込む太陽の光が、幾筋もの金色の矢となって、杉木立に走っていた。
 一九七一年(昭和四十六年)四月二日午後、山本伸一は、総本山にある恩師戸田城聖の墓前で、深い祈りを捧げていた。
 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」
 その唱題の声は、常にも増して一段と力強く、喜びに弾んでいた。
 彼は、心で、戸田に語りかけた。
 ″先生! 本日、念願の創価大学が、遂に、遂に開学いたしました。
 さきほど、開学式も終わり、希望に胸弾ませる新入生の語らいの声が、キャンパスにこだまし始めました……″
 伸一の胸には、微笑をたたえ、何度も、頷く戸田の顔が、くっきりと浮かんでいた。
 思えば、戸田が伸一に、最初に大学設立の構想を語ったのは、忘れもしない、一九五〇年(同二十五年)十一月十六日のことであった。伸一、二十二歳の晩秋である。
 それは、戸田が経営していた東光建設信用組合が、経営不振から営業停止となり、彼が学会の第五回総会で、正式に理事長を退いて四日後の、まさに窮地のさなかのことであった。
 その日、西神田の会社近くにあった大学の食堂で、昼食をとりながら、戸田は伸一に、宣言するように語った。
 「伸一、大学をつくろうな。創価大学だ」
 そして、初代会長の牧口常三郎が、自分の創価教育学を実践する学校を必ずつくろうと言っていたことを、懐かしそうに回想するのであった。
 一九三〇年(同五年)の十一月十八日から発刊された『創価教育学体系』にも、創価大学・学園につながる構想は、既に明確に記述されている。
 戸田の瞳は、燃え輝いていた。
 「人類の未来のために、必ず創価大学をつくらねばならない。しかし、私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。伸一、その時は頼むよ。世界第一の大学にしようじゃないか!」
 最悪な事態のなかで、師は弟子に、大学設立の希望を語り、その実現を委ねたのである。
 彼は、この言葉を遺言として受け止め、深く、深く、心に刻んだ。
 以来二十一年、伸一はその構想の実現に、全生命を注いできたのだ。
2  創価大学(2)
 戸田城聖の胸のなかでも、学校創立の構想は、年とともに具体化していった。
 一九五四年(昭和二十九年)の九月のことであった。水滸会の野外研修のため、東京・氷川に向かったバスが、八王子方面を通りかかった時、戸田は山本伸一に言った。
 「いつか、この方面に創価教育の城をつくりたいな……」
 さらに、翌五五年(同三十年)一月二十二日、伸一とともに高知を訪問した折、学会は学校をつくらないのかとの会員の質問に答えて、戸田は力強く宣言した。
 「今につくります。幼稚園から大学まで。一貫教育の学校をつくる。日本一の学校にするよ!」
 しかし、その戸田は、教育の城の実現を見ずして世を去った。
 創価大学の創立は、牧口常三郎、戸田城聖の念願であり、三代にわたる師弟の精神の結晶として、伸一が断じて成し遂げねばならぬ、一大事業であった。
 伸一が、創価大学の設立を正式に発表したのは、彼が会長に就任して四年を経た、六四年(同三十九年)六月三十日に行われた第七回学生部総会であった。
 翌六五年(同四十年)十一月には、創価大学設立審議会が発足した。
 審議会の会長は、伸一である。
 そして、六八年(同四十三年)には、大学の開学に先立って、東京・小平市に、創価学園(中学校・高等学校)が開校している。
 当初、大学の開学は七三年(同四十八年)にするとの計画もあったが、高校の一期生が卒業する七一年(同四十六年)に、予定が繰り上げられたのである。
 伸一は、創価大学を建設する場所は、戸田の構想通りに、東京・八王子にしようと決め、土地の取得など、着々と準備を進めてきた。
 彼は、大学には、豊かな緑に恵まれた、広々としたキャンパスが必要であると考えていた。
 しかも、彼方には、日本一の名山である富士が見える地にしたかった。
 また、都心の喧騒を離れ、冬は少し寒いぐらいの方が、勉学に励む環境としては適していると思えた。
 八王子は、それらの条件にすべて適っていた。
3  創価大学(3)
 八王子は、さらに、中央自動車道が走り、豊かな自然が残っている地としては、都心からの交通の便もよかった。
 また、山本伸一は、この八王子で、何度か夕焼けを目にする機会があったが、その美しさにも魅せられていた。
 真っ赤に西の空を染める夕日は、荘厳であり、完全燃焼し抜いた勇者の気高さを感じさせた。
 童謡の「夕焼け小焼け」は、八王子の夕焼けを歌ったものといわれる。
 さらに、彼は、八王子という名前も、好きであった。
 それは、法華経に八人の王子、つまり「八王子」のことが説かれていたからである。
 法華経序品には「日月灯明仏」のことが述べられている。日光や月光、また灯明のように、一切衆生を照らす智慧を具えた仏である。
 この「日月灯明仏」という名の仏は、二万も続いて出現するが、その最後の仏は、出家前、王であり、八人の王子がいたと説かれている。
 この八王子には、有意(智慧)、善意(善き智慧)、無量意(無限の智慧)、宝意(宝の智慧)、増意(優れた智慧)、除疑意(疑念を打ち破る智慧)、響意(雄弁の智慧)、法意(法の智慧)という名前がつけられていた。
 そして、「是の八王子は威徳自在にして、各おの四天下を領す」と説かれている。
 八人の王子は、威徳を自在に発揮して、それぞれが四天下、つまり世界を領土としていたというのである。
 いわば、八人の王子が世界をリードしていったのである。
 伸一は、その八王子という名の場所に大学が建つことに、深い意義を感じたのだ。
 彼には、法華経の八王子の教えは、智慧の光をもって世界を照らし出し、人類の幸福と平和を築く多くの人材を輩出する創価大学の使命を、象徴しているように思えてならなかった。
 また、初代会長の牧口常三郎も、八王子方面には白金小学校の遠足で、何度か足を運んでいる。
 ″ここに大学が開学することを聞いたら、牧口先生も、さぞかし喜んでくださるにちがいない″ 伸一は、そう強く確信していた。

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