Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第15巻 「蘇生」 蘇生

小説「新・人間革命」

前後
1  蘇生(1)
 それは、生命のルネサンスの朝を告げる号砲であった。
 「広宣流布とはまさしく″妙法の大地に展開する大文化運動″である!」
 一九七〇年(昭和四十五年)五月三日の本部総会での、山本伸一のこの宣言によって、新しき時代の幕が切って落とされたのだ。
 妙法の大地に展開する大文化運動――それは、仏法の人間主義を根底とした社会の建設である。
 肥沃な土壌には、豊かなる草木が繁茂する。
 同様に、仏法の大生命哲学をもって、人間の精神を耕していくならば、そこには、偉大なる文化の花が咲き薫り、人間讃歌の時代が築かれることは間違いない。いな、断じて、そうしなければならない。そこにこそ、仏法者の社会的使命があるのだ。「人を救い世を救うことを除いて宗教の社会的存立の意義があろうか」とは、牧口常三郎初代会長の叫びであった。
 一九七〇年(昭和四十五年)秋、創価学会は、本格的な人間文化創造への取り組みを開始しようとしていた。
 伸一は、近年、人間の精神の開拓を忘れ、便利さや豊かさのみを追い求めてきた現代社会の″歪み″を、いやというほど痛感してきた。
 その最も象徴的な事例が、公害問題の深刻化であった。このころ、イタイイタイ病、水俣病などの裁判の行方が、社会の大きな関心事となっていた。
 イタイイタイ病は、カドミウムに汚染された農作物や水を、長年、吸収することによって起こる病である。カドミウムを吸収し続けると、カルシウムの代謝に異常が生じ、骨が軟化し、変形したり、折れたりするようになる。くしゃみをしただけで骨折した人もいた。
 腰、肩、膝など、全身に激痛が走り、「痛い、痛い」と泣き叫ぶことから、イタイイタイ病と名づけられたのである。激痛のために夜も眠れず、やせ衰え、やがて亡くなっていく人もいた。ホルモンの関係から、患者は中年以後の女性に多かった。
 この病は北陸地方の富山県・神通川流域に多発していたが、長い間、風土病と考えられてきた。だが、地元の開業医や岡山大学の教授が、原因究明に立ち上がり、調査を開始していった。
2  蘇生(2)
 一九六一年(昭和三十六年)六月、日本整形外科学会の総会の会場は騒然となった。神通川流域でのイタイイタイ病の研究に取り組んできた開業医の萩野昇が、その原因を発表したのだ。
 ――上流にある大手金属会社の鉱業所が流す、排水に含まれたカドミウムであった。
 しかし、行政側の対策は、遅々として進まなかった。それから五年半が経過した六七年(同四十二年)の一月になっても、原因は定まらないとする報告書を出していたのである。
 波風が立つのを恐れ、人間の生命よりも、大企業の擁護を優先するという姿勢を、取り続けてきたのだ。
 政府が、イタイイタイ病の問題に対して重い腰を上げたのは、この年の五月、公明党の参議院議員である大矢良彦が、参議院の「産業公害及び交通対策特別委員会」で、イタイイタイ病を取り上げてからであった。
 公明党は、生命の尊厳を守り、人間優先の政治を実現しようと、公害問題の解決に全力で取り組んできた。人間の生命を守ることに、最大の力点を置いていたのである。そもそも大矢が、この問題を国会で取り上げる契機となったのは、公明党本部にかかってきた一本の電話である。
 イタイイタイ病の研究に取り組んできた、岡山大学教授の小林純からであった。
 一九六六年(昭和四十一年)十月、公明党の参議院議員の鈴本実が、再発した足尾銅山の鉱毒問題について、被害農民の側から大企業の責任を厳しく追及した。
 それを新聞で知った小林は、同じ鉱毒問題で、もっとひどいところがあると、公明党本部に連絡してきたのである。小林が語ったのが、神通川流域のイタイイタイ病であった。
 その調査を担当したのが大矢であった。彼は、すぐに岡山に飛び、小林と会った。話を聞くと、放って置くわけにはいかないと思った。
 この病気の原因を究明した、地元の萩野医師も訪ねた。萩野は、金属鉱業所の排水が原因であると発表したことから、激しい非難にさらされていたのである。
3  蘇生(3)
 萩野は、スライドなどを使って、患者の悲惨な実情を訴えた。
 病に侵され、激痛にうめき苦しみながら、やがて息絶えていく人びとの姿は、大矢に激しい衝撃を与えた。彼の目には、涙があふれた。
 ″こんな悲惨なことがあるのか!これは、歴然とした公害だ。こんなことが許されていいわけがない!″
 大矢は、ぎゅっと唇をかみしめていた。
 彼は、涙を拭い、深々と頭を下げた。
 そして、顔を上げると萩野に言った。
 「これを追及することこそ、私たち政治を預かる者の責任です。これまで、なんの手も打てなかったことを、申し訳なく思います」
 萩野は、驚きを隠せなかった。黙って、大矢の手を、固く握りしめた。
 見つめ合う二人の、目と目が光った。
 大矢が言った。
 「やります! 断じて戦います!」
 萩野は大きく頷いた。
 一九六七年(昭和四十二年)五月二十六日、大矢は、国会で質問に立った。初めてイタイイタイ病が国会の場で取り上げられたのだ。
 大矢の追及に厚生省(当時)は慌てたようだ。地元の国会議員は、大企業を敵に回しては″票″が減ると考えてか、誰も取り上げなかった問題である。
 民衆を苦しめる社会の不条理と戦ってこそ、政治家である。その戦いがなければ政治屋である。
 大矢は、六月九日にも再び、イタイイタイ病を取り上げた。
 彼は、原因は金属会社の鉱業所から出るカドミウムであることは明らかであり、政府は公害と断定して、速やかに、患者に対する医療保障対策を講ずるべきであると迫った。
 さらに、公明党は、党内に「イタイイタイ病対策特別委員会」を結成。医療給付や援護手当の支給を盛り込んだ、「イタイイタイ病対策緊急措置要項」を作成し、法案化への流れを開いていったのである。
 十二月には、参議院の「産業公害及び交通対策特別委員会」に、参考人として出席した岡山大学教授の小林純や医師の萩野昇らが、病因を断定するとともに、患者の悲惨な病状を訴えた。その内容は、報道を通して全国に伝えられた。

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