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日蓮大聖人・池田大作

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第14巻 「烈風」 烈風

小説「新・人間革命」

前後
1  烈風(1)
 フランスの文豪ユゴーは叫んだ。
 「昼となく夜となく戦い続けるのです。山も平野も森も戦うのです。立ちあがりなさい! 立ちあがりなさい! 戦いの手を休めてはなりません」
 山本伸一は、命を燃やして、走り、戦い続けていた。
 彼は、この年(一九六九年)の五月の本部総会で、会長就任十周年となる明一九七〇年(昭和四十五年)五月三日までの目標として、会員七百五十万世帯の達成を発表したのであった。それは、師の戸田城聖が宿願とした七十五万世帯の実に十倍である。
 組織を盤石にし、仏法の人間主義に基づく社会建設の運動を多面的に展開しながら、その目標を成就するのは、決して容易なことではない。しかし、広宣流布の大構想を実現していくためには、断じて成し遂げねばならぬ課題であった。ゆえに伸一は、五体をなげうつ覚悟で、走り抜こうと心に決めた。全国津々浦々の同志と会い、力の限り励まし、自分と同じ決意、同じ自覚で進んでくれる一騎当千の″勇将″を、何人つくるかが勝負であると、彼は思っていた。
 伸一は、八月の夏季講習会を終えると、九月二日には、京都での関西幹部会に出席し、大阪、奈良、愛知と回った。九月の中旬には北海道に飛び、十月の初旬は関西、四国に行き、下旬には東北を訪れている。さらに、十一月に入ると、中部、関西、そして九州を訪問。十二月の初旬には、また、関西、中国、中部と回り、この折には、淡路島にも足を延ばした。
 その間隙を縫うようにして、東京をはじめ、静岡、神奈川、山梨、茨城などの近県の会員の激励に奔走したのだ。
 彼のスケジュールは、過密を極めた。しかも、どの地でも、会う人ごとに全力の激励を重ねた。移動の車中も、同志からの手紙や決裁書類に目を通した。また、書籍などへの揮毫は、連日、二百、三百を数えた。
 激闘につぐ激闘で伸一の疲労は激しかった。十二月半ばには体調を崩してしまい、高熱が続いていた。だが、彼の勢いは、とどまるところを知らなかった。
2  烈風(2)
 一九六九年(昭和四十四年)十二月二十日、山本伸一は、新大阪に向かう新幹線のシートに身を委ねていた。この年七度目の関西指導のためである。
 彼の顔は、大きなマスクで覆われていた。熱は下がらず、口の中は、いがらっぽく、咳も治まらなかった。だが、その胸には、闘魂が激しく燃え盛っていた。
 伸一は、海外訪問の折などにも、何度か、体調を崩したことがあった。しかし、これほど熱も高く、咳も激しいことはなかった。最悪のコンディションといってよい。
 伸一の様子を見ていた同行の幹部は、心配そうに言った。
 「かなり体調がお悪いようですから、もしもの場合を考え、奥様をお呼びし、付き添っていただいた方がよいのではないでしょうか」
 伸一は、頷きながら言った。
 「そうだな……。万全を期すためには、そうした方がいいね」
 彼は、この関西指導に広宣流布の未来をかけていた。
 関西がすべてに大勝利し、常に全国をリードする存在になれば、広宣流布の新しい流れが開かれることになる。なぜなら、それは、各方面が中心となって、学会を牽引していく、地方の時代の幕開けを意味するからだ。それだけに、この関西訪問は、なんとしても大成功させなければならなかったのである。
 伸一は、前々日、峯子をはじめ、家族を呼ぶと、強い語調で言った。
 「私は関西に行くが、私の体は最悪の状態にある。場合によったら途中で倒れたり、入院したりするようなことがあるかもしれない」
 長男の正弘は十六歳、久弘は十四歳、弘高は十一歳である。
 皆、父の思いを必死で受け止めようと、食い入るような眼差しで、伸一を見ていた。
 彼は言葉をついだ。
 「しかし、私は行く。今、関西は、広宣流布の未来のために、断じて勝たねばならぬ正念場の時を迎えているし、関西の同志が私を待っている。その気持ちを踏みにじるわけにはいかない。
 戸田先生も、亡くなる半年前、倒れてもなお、広島に行こうとされていた。私も弟子として、広宣流布の歩みを止めるわけにはいかない」
3  烈風(3)
 伸一は、峯子と子どもたち一人ひとりに、じっと視線を注いだ。そして、覚悟を促すように言った。
 「だから何が起ころうが、どんなことになろうが、決して驚いたり、慌てたりしてはいけない」
 妻も子も、意を決したように、深く頷いた。
 また、伸一は、途中で倒れたり、発熱などのために、会合で話ができなくなってしまった場合のことも考慮し、周到に準備をした。東京・杉並方面の幹部会(十二月九日)で、強き信心と団結こそが勝利の原動力であることを訴えた、講演のテープを用意したのだ。いざという時には、これをかけようと考えたのである。
 いかなる事態になろうが、絶対に同志を奮い立たせる――その強い一念が、緻密な準備となっていったのである。
 大ざっぱであったり、漏れがあるというのは、全責任を担って立つ真剣さの欠如といってよい。絶対に失敗は許されないとの強い決意をもち、真剣であれば、自ずから緻密になるものだ。
 伸一が峯子を呼ぶことに同意したのも、万が一のことを考えてのことであった。
 関西では、二十二日までの三日間で、大阪、和歌山、奈良と回り、二十三日には三重を訪問する予定であった。時刻は、午後三時半を回っていた。間もなく、新大阪駅である。
 この日は土曜日とあって、午後五時から、東大阪市の市立中央体育館で関西幹部会が行われることになっていた。休む間もなく、すぐに会場に向かわなければならない。
 高熱と咳に苦しむ伸一を見ていた同行の幹部の関久男が、改まった口調で言った。
 「山本先生! 今日の関西幹部会は、私たちで行いますので、先生は休養なさっていただければと思いますが……」
 関の隣にいた、森川一正も言った。
 「ぜひ、そうしてください」
 伸一は言下に答えた。
 「いや、行くよ。苦楽をともにした最愛の関西の同志が待っているんだ。出席しないわけにはいかないよ。私は、そのために来たんだもの」

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