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日蓮大聖人・池田大作

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第14巻 「使命」 使命

小説「新・人間革命」

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1  使命(1)
 人には、皆、尊い使命がある。その使命を自覚した時、閉ざされていた生命の扉は開け放たれ、無限の力がわく。無量の智慧がわく。
 われらの根本的使命――それは、万人の幸福と平和を実現する、「広宣流布」という人類未到の聖業の成就にある。
 初代会長牧口常三郎の生誕九十八年の記念日にあたる一九六九年(昭和四十四年)六月六日は、東京地方の梅雨入りが宣言された日であった。
 雨が降り続く、この日の夕刻、学会本部に近い新宿区南元町の女子会館(花壇寮)に生き生きと向かう女性たちがいた。女子部の看護婦(現在は看護師)メンバーの代表たちである。
 身繕いをする間もなく、勤務先の病院から息を弾ませて駆けつけた人もいたが、その頬は紅潮し、瞳は使命に生きる誇りに輝いていた。
 午後七時前、四十数人の参加者が顔を揃えた。開会が告げられると、まず、女子部長の藤矢弓枝が、満面に笑みを浮かべて語り始めた。
 「皆さん、今日は嬉しいお知らせがあります。
 山本先生から、看護婦の皆さんのグループを結成してくださるとの、お話をいただきました。そして、名前もいただいております。グループの名称は『白樺グループ』です。
 本日は、その結成式となります。大変におめでとうございます」
 「ワーッ」という歓声とともに、大きな拍手が起こった。
 白樺グループ――山本伸一は幾たびとなく北海道を訪問していたが、そこで目にする白樺の清楚で気品あるたたずまいは、「白衣の天使」のイメージにピッタリと符合していた。
 白樺は「パイオニアツリー(先駆樹)」と呼ばれる樹木の一種で、伐採後の荒れ地や山火事のあとなどでも、真っ先に育つ、生命力の強い木であるといわれている。また、あとに生えてくる木々を守る、「ナースツリー(保護樹)」としても知られている。
 彼は、人びとの生命を守りゆく看護婦グループに、最もふさわしい名前であると考え、「白樺グループ」と命名したのである。
2  使命(2)
 ″看護婦さん″というと、伸一には忘れられない、青春時代の思い出があった。
 それは、国民学校を卒業し、鉄工所に勤めていた時のことである。戦時下の軍需工場での労働は、かなり過酷なものがあった。
 伸一の胸は、結核に侵されていた。しかし、仕事をやめるわけにはいかなかった。四人の兄たちが、皆、兵隊に取られ、彼が一家を支えなければならなかったからである。
 彼は無理に無理を重ねた。三九度の熱を出しながら、仕事を続けたこともあった。軍事教練中に倒れたこともあった。休ませてもらおうとしても、「ずる休みをするな!」と言われる時代であった。
 そんなある日、高熱に加え、血痰を吐き、医務室に行った。
 憔悴しきった伸一の姿を見ると、医務室の″看護婦さん″は、素早く脈をとり、体温を測った。四十代半ばの小柄な女性であった。
 彼女は、心配そうな顔で言った。
 「これじゃあ、苦しいでしょう。ここには満足に薬もないし、レントゲンも撮れないから、すぐに病院へ行きましょう」
 伸一は遠慮した。だが、″看護婦さん″は、ふらつく彼を支えて、病院まで付き添って来てくれたのである。
 道すがら、彼女は転地療法を勧めたあと、屈託のない顔で語った。
 「戦争って、いやね。早く終わればいいのに……。こんな時世だけど、あなたは若いんだから、病気になんか負けないで頑張ってね」
 診察を終えると、伸一は、何度も頭を下げ、丁重にお礼を述べた。
 ″看護婦さん″は、さらりと言った。
 「気にしなくていいのよ。当たり前のことなんだから」
 社会も人の心も、殺伐とした暗い時代である。親切を「当たり前」と言える、毅然とした優しさに、力と希望をもらった気がした。それは、伸一にとって、最高の良薬となった。
 彼女の優しさは、「戦争はいや」と、戦時下にあって堂々と言い切る勇気と表裏一体のものであったにちがいない。一人の生命を守り、慈しむ心は、そのまま、強き″平和の心″となる。
3  使命(3)
 看護婦メンバーのグループの結成を、山本伸一が提案したのは、ひと月ほど前のことであった。
 この数年、看護婦の過重労働が、大きな社会問題となっていた。
 看護婦の数は、病院のベッド数の増加に追いつけず、看護婦不足は、年々、深刻化の一途をたどっていたのである。
 病院看護は、二十四時間を、日勤、準夜勤、深夜勤の三交代で行うことになっていたが、準・深夜勤を合わせると、月のうち、十回を超えるのは普通で、月二十回という人もいた。
 どこの病院でも、看護婦は疲れ果てていた。労働内容に比べて待遇も悪く、体がもたないなどの理由から、転職を考える人も多かった。
 全日本国立医療労働組合は、人事院に行政措置要求を行い、一九六五年(昭和四十年)には、「夜勤回数は月八回以内に」「夜勤人数は二人以上に」との判定が出されたが、改善は、ほとんどなされなかった。
 そのため、夜勤を月八回以内に制限することなどを要求する看護婦のストが、全国で起こっていたのである。一九六九年(昭和四十四年)の五月になると、創価学会本部のある信濃町の慶応病院でも、夜勤を月八回以内にした、組合がつくったダイヤで仕事をするという、自主夜勤制限が行われた。
 これは、マスコミにも大きく取り上げられた。「看護婦のいない夜は、患者はどうなるのか。患者を人質にすることではないのか」との、組合への非難も渦巻いた。
 伸一は、学会の女子部にも、多くの看護婦がいることを知っていた。当時、東京だけでも、七百人ほどのメンバーがいたが、勤務の関係で、思うように学会活動に参加できない人も少なくなかった。しかし、そのなかで懸命に時間をやりくりしては活動に励み、さらに、学会の各種行事の「救護」役員として、忙しい仕事の合間を縫って、駆けつけてくれていたのだ。
 伸一は、看護婦として働く女子部員に、励ましを送り、勇気と希望を与えたかった。生命の守り手たる、尊き使命を自覚し、職場の第一人者として大成してほしかった。そのために、女子部の幹部と相談し、「白樺グループ」の結成に踏み切ったのである。

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