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日蓮大聖人・池田大作

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第13巻 「楽土」 楽土

小説「新・人間革命」

前後
1  楽土(1)
 ″さあ、新しい年だ。山本先生は、どんな詩を発表されるのだろう″
 全国の会員は、聖教新聞の新年号に掲載される山本伸一の詩を、楽しみに待っていた。
 そして、胸を躍らせながら、一九六九年(昭和四十四年)「建設の年」の元日付の聖教新聞を手にした。一面に、「建設の譜」という、伸一の特徴ある、力強い毛筆の文字が躍っていた。これが、この年に、彼が全同志に贈った、詩のタイトルであった。
  おお 煌然として 太陽はのぼる
  新しき生命の 鼓動にあわせて――
  建設の戦士 いま起ちて
  建設の譜を 謳わんとす
  七彩の雲ながれ
  ああ 暁鐘は鳴りわたる
 同志は、自らの決意を確認する思いで、この詩を読んでいった。
  破壊は 一瞬
  建設は 死闘
  惰性は暗 希望は明
  後退は死 前進は生
  白法の隠没せんとした時から
  ああ 二十余年……
  国破れた山河に ただひとり
  恩師は 曠野にむかって叫んだ
  ――大聖哲の昔に還れ! と
  いま 建設の槌音のなかで
  私は 声をかぎりに叫ぼう
  ――曠野に立った 恩師の昔に還れ
  ――そして 大聖哲の昔に還ろう
 総本山では、一九七二年(昭和四十七年)の完成をめざして、八百万信徒の赤誠による、正本堂の建設が始まっていた。正本堂は、やがて本門の戒壇となる建物であり、広宣流布の大前進の象徴である。ゆえに全同志が、その槌音とともに、自身の胸中に不滅なる信心を築き上げ、広宣流布の勝利の実証を打ち立てなければならないというのが、伸一の信念であった。
 そして、そこにこそ、永遠ならしめるべき、この世界平和の大殿堂を荘厳する道があると、確信していたのである。
2  楽土(2)
 正本堂建設の喜びに、学会も、宗門も、わきかえっていた。
 だが、仏法上、極めて重要な意義をもつ正本堂も、建物の建造だけをもって事足れりとすれば、信心の内実を欠いた、権威のための伽藍となってしまう。それでは、魂の抜け殻に等しい。伽藍は、信心という光源があってこそ、光り輝くのである。
 したがって、今こそ、全同志が勇猛果敢に立ち上がり、万代にわたる広宣流布の堅固な基盤を完成させなければならないと、伸一は、強く決意していたのである。
 だから彼は、詩のなかで「礎は 深く ふかく そして 岩底まで 掘らねばならぬ」と訴え、こう叫んだのである。
  一人が 一人の宝塔をひらき
  そのまた一人が――
  もう一人の 宝塔を建てねばならぬ
  慈悲と忍辱と勇気と
  空前絶後の――
  栄えある 果敢な闘魂が
  いまほど 絶対の要請となった時はない
 そして、詩は、次の言葉で結ばれていた。
  指標に進む 建設の友よ
  使命に生きる 建設の勇士よ
  警世の篝火を 狼煙のごとく
  空高く また遠く 掲げゆけ!
 「建設の譜」は、全国の同志の魂を、強く、激しく揺さぶった。皆、武者震いを覚えた。
 特に「破壊は一瞬 建設は死闘」は、同志の合言葉となった。
 この年の五月三日で、伸一は会長就任九周年を迎え、十年目の佳節に突入することになる。″いよいよ学会は、新しい大前進が始まるにちがいない″と、誰もが感じていた。
 それだけに、皆、詩の行間から、伸一自身の、決戦の心意気を感じ取っていった。
 ″今しかない。時は戻らない。この一年を勝利しよう。広宣流布の新しい幕を開くのだ。自分自身の黄金の歴史をつくろう!″
 「建設の年」の大勝利の因は、実に、伸一の、年頭のこの詩にあったといってよい。
3  楽土(3)
 伸一は、この一年も、くまなく日本全国を回り、同志を励まし続ける決意でいた。
 一月は、首都圏のメンバーの激励に奔走し、二月に入ると、八日から十二日まで、関西、中部を訪問した。そして、十五日の午前十時半過ぎには、彼は沖縄の天地に立っていた。
 那覇は「曇後雨」の予報を覆し、晴れ渡った空が広がり、初夏を思わせる陽気であった。
 伸一の胸には、沖縄の楽土建設への闘魂が、照りつける太陽にも増して燃え盛っていた。
 沖縄は、本土復帰、さらに、米軍基地の問題で揺れ続けていた。前年の十一月、嘉手納基地で、戦略爆撃機B52の墜落事故が起こった。幾度となく、こうした事故の被害に泣き、常に危険にさらされてきた沖縄住民の怒りは、激しく燃え上がった。
 この事故が契機になって、「いのちを守る県民共闘会議」が結成され、B52の撤去のための運動が、広がりを見せていったのである。
 そして、B52の常駐から一年となる二月四日、共闘会議は嘉手納村(当時)で、同機の撤去、原子力潜水艦の寄港中止などを求める、県民の総決起大会を開いた。大会は、左翼系学生から超党派の婦人連合会、キリスト教団体、基地周辺の農民、漁民など、約五万五千人(主催者発表)が参加する大規模な集いとなった。宣言や決議の採択に続いて、デモ行進に
 移ったが、過激派学生らが基地突入を図り、琉球警察の機動隊と激しい乱闘となったのである。
 沖縄の米軍基地は、六〇年代後半に入ってベトナム戦争が拡大すると、利用頻度が激増していった。また、以前から配備されていた核兵器の問題もあり、住民は基地に対して、大きな脅威を感じてきた。
 一九六七年(昭和四十二年)十一月、佐藤栄作首相とジョンソン米大統領との会談で、沖縄の施政権を日本に返還する方針が明らかになった。
 本土復帰は、人びとの悲願であった。だが、復帰した時、核や基地はどうなるのか――それが、最大関心事であった。そのなかで戦略爆撃機B52の墜落事故が起き、反核・反基地運動に火をつけたのである。

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