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日蓮大聖人・池田大作

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第13巻 「光城」 光城

小説「新・人間革命」

前後
1  光城(1)
 紺碧の空、きらめく太陽、エメラルドの海、砕け散る銀の波……。
 南国・奄美は、美しき光の城であった。
 常緑樹の緑に染まる島のなかで、微風に揺れる黄金のススキの穂だけが秋を感じさせた。
 山本伸一が奄美空港に降り立ったのは、一九六八年(昭和四十三年)十一月十三日の正午過ぎのことであった。
 彼は十日から九州を訪問し、福岡県北九州市での芸術祭(十日)、熊本市での大学会結成式(十一日)、鹿児島市での婦人部と女子部の指導会(十二日)などに出席し、この日、空路、奄美大島に飛んだのである。
 奄美本部の班長、班担当員らの幹部との記念撮影会に出席するためであった。
 伸一の奄美訪問は、五年ぶりであり、これが二度目であった。
 一九六三年(昭和三十八年)六月の初訪問の時には、まだ奄美大島への航空便はなかった。鹿児島から徳之島まで飛行機に乗り、そこから奄美大島の名瀬港まで、五、六時間も船に揺られなければならなかった。
 伸一は激しい疲労を覚えたが、一日で五年分に相当する仕事をするのだと、奄美大島会館の落成式や総支部結成大会などに相次ぎ出席した。
 渾身の力で、メンバーの激励にあたった彼は、五年後に、再び奄美を訪問することを約束したのである。新たなる希望は、闘魂を燃え上がらせる。メンバーは再会を目標に、懸命に広布に走った。そして、この五年の間に奄美諸島は、一総支部から一本部二総支部へと大発展を遂げたのだ。
 伸一は、出迎えた地元幹部とともに、奄美大島会館に向かった。
 車は、大海原が広がる太平洋岸の道を進んでいった。風に揺れる海岸のヤシやソテツが、南国情緒を漂わせていた。それから、波のない、青い鏡のような、東シナ海側の内海に出た。
 伸一は、車を運転してくれている地元の幹部に尋ねた。
 「弾圧事件があった村の同志は元気ですか」
 「はい。新しい決意で頑張っております」
 奄美では、この前年、ある村で、学会員への大々的な弾圧事件が起こったのである。
2  光城(2)
 車は木々の生い茂る峠道に差しかかっていた。
 伸一は、重ねて尋ねた。
 「事件があった村は、今はどんな状況ですか」
 「かつてのような激しい村八分は収まり、一応の解決はみました。しかし、村の人たちの学会に対する偏見は、まだまだ根強いものがあります」
 「そうだろうね。誤解が晴れ、偏見が払拭されるには、長い歳月が必要です。何があっても粘り強く、頑張り抜いていくしかない。学会は、村の人たちの幸福と、地域の発展を願って行動しているんだもの、きっと、いつかわかる時がくるよ。
 しかし、こうした難が起こったということは、奄美の同志の信心も、いよいよ本物になったということです。あの事件は、奄美広布の飛躍台なんです。大聖人は、『大悪をこれば大善きたる』と仰せではないですか。
 皆が、いよいよ決意を新たにして前進していくならば、奄美は必ずや日本で一番、広布が進んだ地になるでしょう」伸一は、車中、静かに題目を唱え、深く祈りを捧げた。
 その村に弘教の波が広がったのは、村の出身である富岡トキノが、一九六〇年(昭和三十五年)の春に、福岡から帰って来てからであった。
 彼女は、奄美で生まれたが、尋常小学校四年の時に、父親の仕事の関係で神戸に移った。十九歳でトキノは、父が決めた男性と結婚。男の子をもうけた。
 だが、その夫に、妻子がいることが発覚したのである。彼女は子どもを連れて家を飛び出した。終戦後、トキノは、神戸で再婚する。
 ほどなく、奄美に帰っていた父親から、跡取りが必要だからと言われ、泣く泣く息子と別れなければならなかった。
 息子は、トキノの父のもとで、奄美で暮らすことになったのである。
 やがて、トキノと新しい夫との間に娘が誕生する。トキノは夫と、名古屋で製菓業を始めた。仕事は、なんとか軌道に乗り、幸せを手に入れたかに思えた。だが、夫が結核で他界してしまう。
 追い打ちをかけるように店が火事になり、さらに、借金をして店を再建した矢先、従業員が店の金をすべて持って、消えてしまったのである。
3  光城(3)
 富岡トキノは失意のどん底に叩き落とされた。
 幼い娘を連れて、知人を頼って福岡に来た。牛小屋の二階を改造したアパートを借り、せんべいを焼く仕事などをした。細々と母子二人が生きるのが精いっぱいの暮らしである。しかも、娘は虚弱体質であった。
 希望の見えぬ、暗澹たる日々が続いた。そんななかで、学会員に出会い、仏法の話を聞いた。「宿命」という言葉が心に突き刺さった。その「宿命」が転換できるとの確信にあふれる話に、彼女は入会を決意した。一九五六年(昭和三十一年)の秋のことであった。
 トキノは、結核にも侵されていた。入会した彼女は、一心不乱に信心に励んだ。むさぼるように御書も拝した。そして、人生の崩れざる幸福は、自分自身の生命の変革にあることを知った。
 ″それには折伏に励むことだ!″
 彼女は、娘の香世子の手を引き、弘教にも奔走した。折伏に行き、訪ねた相手が激怒し、池に突き落とされたこともあった。
 でも、微動だにしなかった。学会活動を続けるなかで、幾つもの体験をつかんでいった。病も克服した。
 そして、一九六〇年(昭和三十五年)の春に、彼女は、故郷の村に帰って来たのである。
 離れて暮らしていた息子の正樹は、既に二十歳になっており、香世子は、小学校の四年生になっていた。
 トキノの父親は、信心に猛反対だった。しかし、子どもたちは、彼女と一緒に信心に励むようになった。
 富岡一家が住む集落には、数人の学会員がいたが、指導の手が入らなかったせいか、真剣に信心に取り組んでいる人はいなかった。トキノは、来る日も来る日も、集落の人びとに仏法の話をして歩いた。三カ月もしたころには、集落の二百数十軒の家を、くまなく折伏し、入会者も出始めた。
 だが、土俗信仰の根強い地域であり、人びとの反発は強かった。さらに、トキノをはじめ、学会員が、神社の修復の寄付を拒んだことから、大騒ぎとなった。
 集落で、富岡一家と学会への対策が協議されたのである。

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