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日蓮大聖人・池田大作

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第13巻 「北斗」 北斗

小説「新・人間革命」

前後
1  北斗(1)
 走れ!
 雪に埋もれた、あの悲哀の谷間に、光を送るために。
 苦悩に沈む、あの闇深き森に、明かりをともすために。
 あの地にも、この地にも、私を待つ友がいる。
 行け!
 力尽きるとも、地の果てまで。
 わが生命を燃やして、光の翼となって――。
 一九六八年(昭和四十三年)九月十三日、山本伸一は、東京から、北海道の旭川へ飛んだ。日本最北端の街、稚内へ向かうためであった。当時は、稚内への定期便はまだなかった。
 伸一は、羽田から空路、札幌を経由して旭川まで行き、この日は、近郊の旅館で一泊し、翌日の列車で、稚内に行くことにしていた。彼が、同行の十条潔、関久男らとともに、旭川の空港に降り立ったのは午後四時ごろであった。
 東京では、厳しい残暑の日が続いていたが、旭川は、早くも木々が色づき始め、秋の気配に包まれていた。
 この日、伸一は、雑誌などの依頼原稿の執筆があり、空港から宿舎の旅館に直行し、仕事をしなければならなかった。
 彼が旭川の空港に到着したころ、地元の同志たちは、学会が建立寄進した大法寺に集まり、山本会長の北海道指導の成功を祈念して、唱題会を行っていた。
 メンバーには、今回の山本会長の目的は稚内訪問であり、旭川での会合等の出席はないと伝えられていた。しかし、″一目でもお会いしたい″というのが、皆の願望であった。
 空港には北海道在住の総務である宮城正治と、旭川の男子部の中心者である後藤啓輔ら少数の幹部が出迎えに行った。彼らは、皆の気持ちを思うと、伸一に、「旭川の同志と、ぜひ会ってください」と、頼み込みたかった。
 だが、多忙な山本会長に迷惑をかけまいと、その言葉を飲み込んだ。ところが、伸一の方から、こう言いだしたのである。
 「みんな、どこかに集まって、私が来るのを待っているんだろう。そこへ行こう。激励に行かせてもらうよ」
2  北斗(2)
 「はい、ありがとうございます!」
 伸一の言葉に、出迎えたメンバーは、頬を紅潮させて答えた。
 しかし、東京から同行してきた幹部の顔が曇った。伸一が会合等に出席すれば、仕事をする時間がなくなり、その分、睡眠時間を削ることになるからである。
 実は、伸一は一週間ほど前から体調を崩し、発熱が続いていた。そのなかで、九月の六日には、注射を打って、創価学園のグラウンド開きに出席し、八日には学生部総会で、「日中国交正常化提言」など、一時間十七分にわたる講演を行ったのである。
 そして、前日の十二日にも、民音(民主音楽協会の略称)の招聘で来日した、「アメリカン・バレエ・シアター」のディレクターらとの会談に臨んだ。まさに、激務の日々が続いていたのである。
 それをよく知っている同行の幹部たちにしてみれば、旭川では、伸一に少しでも休養をとってほしかったのだ。だが、伸一は、「次に旭川に来るのは、いつになるかわからないもの、みんなを激励したいんだ」と言って、勇んで会場に向かうのであった。
 彼は、常に「臨終只今にあり」と、自らに言い聞かせていた。そして、人との出会いの場では、いつも「一期一会」の思いで、生命を振り絞るようにして励ました。
 その真剣で必死な生命の弦から放たれる、炎のごとき魂の矢が、友の肺腑を射貫き、勇気を燃え上がらせるのである。
 旭川の空は晴れ渡り、彼方に大雪山連峰の雄姿が、浮かんで見えた。
 皆が集っていた大法寺には、伸一も忘れ得ぬ思い出があった。
 戸田城聖が亡くなった翌年の一九五九年(昭和三十四年)一月、伸一は旭川を初訪問し、この会場で全力を傾け、御書の講義を行ったのである。当時、彼は、ただ一人の総務として、事実上、学会の一切の責任を担っていた。
 そして、この年を「黎明の年」とするように提案し、弟子が立ち上がり、新しき時代を開く闘争の第一歩を、厳冬の北海道から開始しようと決めたのだ。
3  北斗(3)
 九年前の、この旭川指導の時、伸一から訪問の計画を聞かされたある幹部は、あきれたように言った。「ほう、この寒い一月に旭川に行くのですか。もっと暖かい時に行かれたらいいのに」
 有名大学出身の要領のいい幹部であった。伸一は、厳しい口調で語った。
 「厳寒の季節だからこそ、最も寒いところに行くんです。そうでなければ、そこで戦う同志の苦労はわからない。幹部が率先して、一番困難なところにぶつかっていくんです。法華経は″冬の信心″ではないですか!」
 信心は要領ではない。最も厳しいところに身を置き、泣くような思いで戦い抜いてこそ、本当の成長があり、初めて自身の宿命の転換も可能となる。さらに、その姿に触発され、同志も立ち上がるのである。
 北海道は、伸一が、師の戸田城聖に代わって、夕張炭鉱の労働組合による不当な弾圧と戦い、会員を守り、信教の自由を守り抜いた、青春乱舞の大舞台である。彼は、その師弟共戦の天地である北海道から、戸田亡きあとの、新しき創価学会の建設の狼煙を上げようと、雪の原野を走り、旭川を訪れたのであった。
 旭川は、歴代会長との縁深き天地である。初代会長の牧口常三郎は、一九三二年(昭和七年)七月、郷土教育の講演を行うために北海道を訪れ、旭川に滞在している。
 戸田城聖もまた、一九五四年(昭和二十九年)八月、旭川班の総会に出席したのをはじめ、旭川地区の総会、指導会、大法寺の落慶入仏式と、二年余の間に、四回にわたって足を運んでいる。戸田には、旭川を北海道広布の要衝にしようという、強い思いがあったのである。
 伸一は初訪問の折、小樽から列車に乗り、午後一時半に旭川駅に降り立った。空には雲が垂れ込め、一面の銀世界であった。一日のなかで、最も暖かい時間帯であるにもかかわらず、外気は、肌を刺すように冷たかった。東京で生まれ育った伸一には、″寒い″というより、″痛い″と感じられた。

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