Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第13巻 「金の橋」 金の橋

小説「新・人間革命」

前後
1  金の橋(1)
 人間を離れて宗教はない。ゆえに、社会を離れて宗教はない。
 日蓮大聖人は、仰せである。
 「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし
 君たちよ、惨禍の果てしなく続く世界をば、直視せよ! そして、苦悩の渦巻く現実から眼をそらすな! 常に人間は、人びとの幸福のために、平和のために、勇気の叫びをあげていくべきだ。 英知の言葉を発していくべきだ。
 ともあれ、行動だ。生きるとは戦うということなのだ。 そこに、仏法者の使命があり、大道がある。
 一九六八年(昭和四十三年)も、既に九月の声を聞いていた。しかし、残暑は厳しかった。この数日の間、山本伸一は、執務中、少しでも時間があると、原稿用紙に向かっていた。
 だが、ペンはなかなか走らなかった。いつもなら、一時間もあれば、原稿の五、六枚は、すらすらと書き上げてしまうのだが、今回は違った。
 大綱は決まっているのに、複雑に絡み合った問題を前に、数行ほど進んだかと思うと、また、書き直し、原稿を破り捨ててしまうこともあった。彼は、九月八日に、東京・両国の日大講堂で行われる、第十一回学生部総会の講演の原稿づくりに取り組んでいたのである。
 伸一は、近年、本部総会や青年部の各部の総会では、ベトナム戦争をはじめ、世界、社会が直面する諸問題を取り上げ、その解決のための提言を重ねてきた。
 この年の五月三日の本部総会でも、核兵器問題に言及した。そして、核保有五カ国(米、英、ソ、仏、中)は、一堂に会して、核兵器の製造、実験、使用を禁ずること。現在、保持している核兵器の廃棄を話し合うこと――などを提案したのである。
 イデオロギーや国家、民族、宗教等々によって分断され、憎み合う人間同士が、地球家族として結ばれ、人間共和の世界を実現することが、伸一の誓願であった。彼は今度の学生部総会では、未来永遠にわたる日中友好の大河を開くために、中国問題について提言を行うことを、心深く決意していたのだ。
2  金の橋(2)
 伸一は、ベトナム戦争が終結すれば、必ず中国が次の焦点にならざるをえないと考えていた。
 中国は、当時、既に七億を超す世界第一の大きな人口を抱える国であった。しかし、国連からも締め出され、極端な孤立化の道を歩んでいた。
 また、中国は、アメリカの巨大な力に激しく反発していた。それが、韓・朝鮮半島、台湾から東南アジア全域にわたる、政治的緊張と国際不安の誘因となっていることは、否定しようのない事実であった。
 ベトナム戦争に象徴されるように、アジアには東西両陣営の対立が持ち込まれてきたが、資本主義陣営の後ろ盾がアメリカであるのに対して、共産主義側の後ろ盾は、ソ連(当時)よりも、むしろ、中国であった。しかも、中国とソ連の関係も悪化し、一段と緊張は高まりつつあった。
 国際情勢のなかでの中国の立場は、北と西はソ連によって、南と東は事実上、アメリカによって包囲されている状況といってよかった。
 この包囲網を突き破ろうと、中国は軍事力を強化し、ミサイルと核の開発に力を注いでいた。その中国を、国際社会の″異端児″のような状態に追い込んでいたのでは、アジアの平和と繁栄の実現はありえない。いや、世界の平和もありえない。
 伝教大師も、そうした人たちの子孫であったと伝えられている。さらに、地理的にも、日本はアジアの一国であり、海によって隔てられてはいるが、紛れもない隣国である。この縁も深き、計り知れない大恩の国である中国を、かつて、日本は侵略した。悪逆非道の限りを尽くした。なんたる不知恩、なんたる傲慢か!
3  金の橋(3)
 だからこそ、伸一は、一人の日本人として、また、仏法者として、中国、そして、アジアの人びとの幸福と平和のために、一身をなげうつ覚悟を決めていた。それは、師の戸田城聖の誓いでもあった。
 一九五六年(昭和三十一年)の年頭、戸田は、その壮大なる決意を、こう和歌に詠んだ。
  雲の井に
    月こそ見んと
      願いてし
    アジアの民に
      日をぞ送らん
 しかし、二年後、戸田は、後事のすべてを伸一に託して、世を去った。
 戸田の中国に対する思いは、ことのほか深いものがあった。
 ゆえに伸一は、一日も早く、他の多くの国々と、平等、公正に話し合える国際舞台に、中国を登場させなければならないと、これまでも、声を惜しまず主張し続けていたのである。
 その実現のために、大いに力を発揮できる国が日本であり、それこそが、わが国が担うべき国際的使命であると、彼は確信していた。なぜなら、日本は自由主義アジアの中心であるとともに、歴史的伝統、民族的な親近性、地理的条件など、どの観点からみても、中国とは深い関係があるからだ。
 日本は、古代国家として統一する以前から、一貫して中国文明の強い影響を受けながら、発展を続けてきた。これは周知の事実だ。
 日本の文化に決定的な影響を及ぼした仏教も、古くは弥生文化の稲作技術も、中国から日本に伝来したものであった。あの江戸時代の鎖国のなかでさえ、道徳や政治哲学は中国の儒教に学んでいたし、日本の文物、風俗、習慣の多くは、中国に起源をもっているといっても過言ではない。また、古代、日本に渡って来た人びとのなかには、大陸からの渡来人が多く、
 伸一は、二十二歳の時から、戸田の個人教授を受けたが、中国に関する授業には、一段と熱がこもっていた。漢詩や中国文学を語る時には、満身に情感をたたえ、一つ一つの作品の情景を生き生きと再現させながら、その思想に迫っていくのであった。伸一は、この授業を通して、中国の気宇壮大な理想と、豊かなる精神性に、深く、強く、魅了されていったのである。
 だが、その中国と日本との関係は断たれ、戦後、既に二十余年が過ぎても、正常化される気配さえなかった。伸一は、中国を国際舞台に登場させるとともに、行き詰まった日中関係を、速やかに正常化させる必要性を痛感せざるをえなかったのである。

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