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日蓮大聖人・池田大作

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第12巻 「栄光」 栄光

小説「新・人間革命」

前後
1  栄光(1)
 詩の冒頭、彼は、来るべき二十一世紀を、「生命の世紀」と謳った。
 「生命の世紀」とは、生命が尊厳無比なる存在としての座を確保し、いかなることのためにも、手段とされたり、犠牲とされることのない、人間復権の時代である。
 戦争と殺戮の二十世紀から、平和と生命の尊厳の二十一世紀へと転換しゆくことこそ、学会が成し遂げようとする、広宣流布の目的である。
 彼は、それこそが、自身の人生の使命であると決めていた。
 そして、そのための基盤づくりの期間が、一九七二年(昭和四十七年)までの、この五年間であるととらえていたのだ。
 ゆえに、そのスタートとなる「栄光の年」を、断じて大勝利で飾らねばならなかった。
 詩は、十五分ほどで、かたちになった。しかし、それから、一念を研ぎ澄まして、何度も、何度も、推敲を重ねた。
 詩ができ上がると、どっと疲れが出た。一瞬に生命を凝縮しての創作であったからだ。
 大聖人は、「ことばと云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」と仰せであるが、この詩には、彼の平和への熱願と決意が脈打っていた。
 詩「栄光への門出に」が発表されると、聖教新聞社にも、本部にも、全国の会員から、電話や手紙で、多くの反響が届いた。
 「体中に電撃が走る思いです。歓喜に震えています」と言って、電話口で絶句する同志もいた。ある人は、「励ましの新風」を得たと述べ、また、ある人は、「希望の花束」を贈られた思いであると語った。
 一編の詩が、新春の日本列島に、平和を誓う共鳴の交響楽を奏でたのである。
 皆、この詩を読み、自らの使命の深さを、あらためて確信し、弾む心で「栄光の年」の新しき出発を開始したのだ。
2  栄光(2)
 山本伸一は、少年のころから、詩が大好きであった。
 詩の世界には、夢を運ぶ想像力の翼が、自在に天空を駆け巡っていた。また、限りなく深い、大宇宙をも包みゆくような意味の広がりがあり、心の花々が馥郁と咲き薫っていた。
 伸一は、そこに、魅了されてきたのである。
 そして、年齢を重ね、人の心が殺伐としていく世相を目にするにつれ、この″詩心″ともいうべき豊かな精神の世界を、人間は取り戻さなければならないと、思うようになっていった。
 機構や制度が人間性を抑圧し、金やモノが人心を蝕み、過度な科学信奉や、合理的思考への偏重が、人間の精神性を剥奪している現代である。
 人びとの胸に、豊かなる精神の世界を築き上げる「詩心の復権」は、彼にとって、年ごとに、切実な課題となっていたのである。
 伸一は、「宇宙即我」「我即宇宙」と教え、一念三千という人間生命の大法則を説く仏法こそ、汲めども尽きぬ、深く広大な精神の泉であり、詩心の源泉であると確信していた。
 そして、その仏法を弘める広宣流布の運動は、詩心を復権させる、人間精神の開拓作業であるというのが、彼の一つの結論であった。
 ゆえに、彼は、人間性の勝利のために戦う詩人として、詩「栄光への門出に」の筆をとったのである。
 ここから、伸一の生涯にわたる怒濤のごとき詩作の戦いが、本格的に開始されたのだ。
 一月八日付の聖教新聞には、青年の使命と心意気を謳った「元初の太陽を浴びて」を寄稿。さらに翌九日付には、女性の尊き姿を詠んだ、「生命の尊厳を護るものへ」と題する詩が発表された。
 また、このあとも、毎年のように聖教新聞の新年号に詩を寄せ、翌一九六九年(昭和四十四年)には「建設の譜」が、七〇年(同四十五年)には「革新の響」が発表されるのである。
 英語やフランス語などで、「詩」の語源となったギリシャ語「ポイエーシス」は、「創造」を意味する。
 まさに詩作は、「生命の世紀」の創造のための、彼の言論戦となるのである。
3  栄光(3)
 この「栄光の年」を迎えた同志たちの、最大の希望であり、喜びであったのが、創価学園(中学校・高等学校)の開校であった。
 一九六八年(昭和四十三年)四月八日――。
 東京・小平市の創価学園では、遂にこの日、待ちに待った第一回入学式が、晴れやかに行われたのである。
 武蔵野の空は、朝から美しく澄み渡っていた。濃紺の真新しい学生服に、学帽を被り、春の日差しを浴びて、校門を入る生徒たちの顔には、希望の輝きがあった。
 正門を入ると、左手に入学式の会場となる講堂があった。その横には、矢のような形をした、純白の時計台がそびえ立っていた。そして、武蔵野の風情が漂う木立に包まれるようにして、四階建ての、近代的な二棟の校舎が並んでいた。
 講堂前は、朝早くから詰めかけた父母たちで、いっぱいであった。随所で歓談の花が咲いていたが、その言葉には関西弁も、東北弁も、九州弁も交じっていた。生徒は、南は沖縄、九州、北は北海道、東北など、全国から集まっていたのである。
 一人の母親が、時計台を見上げながら、目を潤ませてつぶやいた。
 「校庭も広々としてて緑が多いし、校舎もすばらしいわ。山本先生の創られた、この学校で、うちの子が学べるなんて、ほんま夢のようやわ」
 傍らにいた父親が、満面に笑みを浮かべながら頷いた。
 「そうやな。苦労してきたかいがあったな。子どもを東京に出すのは大変やけど、息子が頑張るゆうてるんやから、わてらも負けんと、働かなあかんな」
 「うちも頑張るで! それにしても、あの子は、いい時代に生まれたもんやな」
 父母たちは、やがて講堂に入ると、そのすばらしさに息をのんだ。
 階段式に千二百三十余のイス席が並び、天井は音響効果を考えて、波のような形に設計されていた。
 都心の有名な劇場にも引けをとらない、見事な造りである。
 「すごい環境やな! これからあの子は、こんなええとこで、毎日、勉強すんやな」

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