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日蓮大聖人・池田大作

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第12巻 「愛郷」 愛郷

小説「新・人間革命」

前後
1  愛郷(1)
 寄せ返す波浪は、やがて、岩をも打ち砕く。
 そうだ。間断なき出発だ! 間断なき前進だ! 連続闘争だ!――そこにこそ、人生と広布の大勝利の道がある。
 一九六七年(昭和四十二年)の五月二十九日に、アメリカ、ヨーロッパの旅から帰国した山本伸一は、休む間もなく、大阪や滋賀県の彦根など、国内の同志の激励に奔走した。
 そして、六月の二十三日には、長野県の松代に向かった。
 松代では、二年ほど前から群発地震が続き、人びとは、不安と恐怖のなかに、日を送ってきたのである。
 伸一は、″一日も早く松代に行き、同志を励ましたい″と念願してきたが、日程の調整がつかず、ようやく、この日の訪問となったのだ。
 引き続いて、翌二十四日には、松本市で長野総合本部の班長、班担当員との記念撮影を行うことになっていた。
 松代は、長野市南東部に位置する、千曲川沿いの町で、真田十万石の城下町として栄え、江戸末期の学者・佐久間象山を生んだ地でもある。
 武田信玄と上杉謙信が戦った、川中島の古戦場も近い。
 また、第二次大戦の末期には、ここに大本営を移転する計画が極秘裏に進められ、三つの山をくりぬいた、総延長十数キロメートルにわたる、大地下壕が造られたことでも有名である。
 その松代で、群発地震が始まったのは、六五年(同四十年)の八月三日のことであった。
 夏の太陽が照りつけるなか、人びとは、時折、「ドン」という、爆発音のような音が響くのを耳にした。
 その音を、最初は林道工事の発破の音だと思い、誰も取り立てて気にはとめなかった。
 しかし、この音と、この日、観測された三回の無感地震こそ、その後、数年にわたって住民を苦しめ続けることになる、松代地震の始まりであったのだ。
 震源は松代の東側にある、皆神山を中心とする半径五キロメートル以内の地域とされた。
 松代には、大本営に予定していた場所に、戦後、地震観測所が設置されていたのである。
2  愛郷(2)
 松代地震観測所では、一九六五年(昭和四十年)八月一日に、世界百二十五カ所に設置が進められていた国際標準地震計と、地盤の伸縮を観測する、ひずみ地震計の二台が機能し始めた。
 なんと、その二日後から、地震が始まったのである。
 八月半ばになると、夜間に空が、蛍光灯のように光る、発光現象が観察されるようになった。
 八月二十日、観測所は比較的小さな地震が同一地域に頻発する群発地震が起こっていることを、気象庁に報告した。
 二十日までの地震は、二千二百八十八回だが、ほとんどが無感地震で、人が揺れを感じる有感地震は三十八回であった。
 しかも、有感地震といっても、屋内でわずかな人が揺れを感じる程度の震度一が三十七回、つり下げられた電灯などが少し揺れる程度の震度二が一回であったことから、地震に気づかない人も多かった。
 観測所は、二十四日には町役場等に地震状況を説明。新聞各紙も地震についての報道を行うようになり、住民の地震への関心は、次第に高まっていったのである。
 八月の二十八日、学会では、東京・台東体育館で本部幹部会を開催しているが、この席上、長野第二本部に、松代一帯を活動の舞台に含む、川中島支部が誕生した。
 メンバーは、支部結成の喜びのなか、地域の安穏と繁栄を願い、はつらつと前進を開始した。
 わが地域に、友情と信頼の輪を広げよう! 人間共和の園をつくろう!――それが、同志の誓いであった。
 九月二日、松代町では、有線放送を使って、全町民に地震の現況を報告。十日には、「地震情報と災害時の心構え」を印刷し、全戸に配布している。
 学校でも、教師の合図で、座布団を頭にのせたり、机の下に潜り込むなど、避難訓練が行われるようになった。
 地震活動は、九月に入ると、日ごとに活発化し、この一カ月で、無感地震は八千五百三十九回を、有感地震の震度一が百八十七回、震度二が十八回を数えるに至った。
 ″これは、大地震の前触れではないか……″
 それまで、楽観的であった人たちも、強い不安をいだくようになっていった。
3  愛郷(3)
 十月一日、松代地震観測所では、初めて震度三の地震を記録した。
 家屋が揺れ、戸や障子がガタガタと鳴動した。
 また、この日、有感、無感合わせて、五百七十三回の地震があり、そのうち有感地震は、十八回に及んだ。
 六日、長野地方気象台と松代地震観測所は、八月初めからの調査結果を気象庁に報告するとともに、公式の「地震情報第一号」を発表した。
 この地震情報では、地震活動の勢力は変化しているが、震源域があまり移動していないことなどから判断して、群発地震は、大地震、または火山の大噴火に、直接、関連はないと考えられるとしていた。
 不安にかられていた住民たちは、胸を撫で下ろした。
 ところが、その三日後の九日、今度は気象庁が、同じ松代地震観測所のデータをもとに、全く異なる見解の地震情報を発表したのである。
 それは、地震活動は、活発になっており、過去の例からみて、局地的な被害を出す地震が起こる心配がある、というものであった。
 気象庁のこの地震情報を、新聞各紙は、異例の″地震予報″″地震警告″として、大きく取り上げた。
 データは同じだが、地元の発表と正反対とも思える内容に、住民は混乱した。
 地元の長野地方気象台長と松代地震観測所の所長は、気象庁に分析の食い違いをただすとともに、異議を申し立てた。
 また、松代町では、町長が有線放送で、「デマに惑わされないように」と注意を呼びかけ、「気象庁の発表は納得できない。町として気象庁に抗議する」と訴えた。
 安全性を強調するか、それとも危険性を強調するかという、基本的な考え方の違いが、この二つの全く異なる発表となったのである。
 人びとの信頼の柱となるべき機関に意思の疎通がなく、ばらばらな見解が出されれば、人心を惑わし、いたずらに混乱を招いてしまう。
 それは、防災に対する住民の団結を、揺るがすことにもなりかねない。
 連携の悪さ、意思統一の欠如は、時には、大問題につながることを知らねばならない。

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