Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第11巻 「躍進」 躍進

小説「新・人間革命」

前後
1  躍進(1)
 勢いは勢いを呼ぶ。
 燃え上がる炎が、大風にあえば、ますます燃え盛るように、勢いある前進は、逆境をはね返し、困難の壁を打ち砕く。
 目覚め立った民衆の、怒濤のごとき社会建設の潮流を、舞い踊るがごとき歓喜の行進を、いったい誰がさえぎれるというのか。
 いかなる権力も、時代を押し返すことはできない。それが歴史の教訓である。
 一九六六年(昭和四十一年)「黎明の年」から、六七年(同四十二年)「躍進の年」へ――創価学会はさらに勢いを増して、新しき年へと突き進んでいった。
 前年「黎明の年」の十一月末、学会は念願の会員六百万世帯を達成し、六百十万世帯になっていた。
 六百万世帯の達成は、六四年(同三十九年)五月三日の本部総会で、山本伸一が次の七年間の目標として示したものであった。
 この時点での会員世帯は約四百三十万であり、以来二年半で、百八十万世帯の拡大を悠々と成し遂げたことになる。
 そして迎えた、この六七年(同四十二年)は、伸一の会長就任七周年の佳節を刻む年であった。
 皆が燃えていた。自分たちが一生懸命に動いた分だけ、未聞の広宣流布の扉が確実に開かれ、時代が、社会が、大きく変わっていく手ごたえを、誰もが感じていたからだ。
 同志の毎日が躍動し、毎日が希望にあふれていた。
 皆、自己自身が広布推進の主役であることを深く自覚し、新しき年の大勝利へ、ますます情熱を燃え上がらせていたのである。
 「躍進の年」を迎えた、伸一の決意は強く、固く、深かった。
 彼はこの一年を、広宣流布の黄金の飛躍台にしなければならないと、心に決めていたのである。
 時間は、万人に平等に与えられている。
 しかし、大願を果たそうとする者にとっては、時はあまりにも短い。
 彼には、時は「光の矢」のように感じられた。だから、一瞬一瞬が真剣勝負であった。
 常に「いつ倒れても悔いはない」「今、倒れても悔いはない」と言い切れる実践を自らに課してきた。
 「不惜身命」とは、「臨終只今」の覚悟で、今を、今日を、明日を、戦い抜く心である。
 広布の大いなる飛躍のために何をなすべきか――答えは明確であった。
 第一線で活躍する同志を、仏を敬うがごとく讃え、励まし、勇気づけることである。
2  躍進(2)
 山本伸一は、大躍進のスタートを飾るために、この一月は、全国を駆け巡ろうと、年頭から、フル回転で動き始めた。
 九日に関西(兵庫、大阪)を訪問したのをはじめ、北海道(札幌)、九州(福岡)、中部(愛知)、千葉、中国(岡山)、静岡、神奈川など、二週間ほどの間に国内をほぼ一巡したのである。
 瞬時の休みもない激闘であった。
 全国の同志は、機関紙を通して、この伸一の動きを知ると、今まさに「躍進」の時が到来していることを実感するのであった。
 「先生は必死だ。懸命に動かれている。私たちも、法のため、友のため、社会のために、動きに動き、語りに語ろう!」
 波動は大きく広がった。
 人びとはリーダーの言葉についてくるのではない。行動についてくるのだ。
 口先だけのリーダーは、やがて、その欺瞞の仮面をはがされ、誰からも相手にされず、見捨てられていくにちがいない。
 ともあれ、新しき年の、広布の大回転が始まったのである。
 この一月の二十九日は、第三十一回衆議院議員選挙の投票日であった。
 衆院選挙は 戦後十回目で、一九六三年(昭和三十八年)の十一月に、第二次池田勇人内閣の時に行われて以来、三年二カ月ぶりであり、六四年(同三十九年)に佐藤栄作内閣が発足してからは、初めての総選挙となる。
 そして、何よりも、公明党にとっては、初の衆院選挙であったのである。
 今回、衆議院が解散した背景には、「黒い霧事件」といわれる、閣僚や代議士の職権乱用、汚職など、不正への疑惑が、相次いで浮上したことがあった。
 この「黒い霧」によって生じた、政治不信をぬぐい去り、本来の議会政治を確立し、政界を浄化することができるかどうかが、今回の総選挙の最大のテーマといえた。
 それだけに、政界浄化に積極的に取り組み、数多くの実績を上げてきた公明党の、衆議院進出に対する期待は、会員だけでなく、社会的にも大きかった。
 ″公明党が頑張らなければ、日本の国の未来は開けない!″
 同志は、誰もがそう痛感していた。そして、公明党の衆院選挙の初陣となるこの選挙で断じて大勝利し、日本の政治の新しい夜明けを開こうと、決意を新たにしていたのである。
3  躍進(3)
 そもそも衆議院への進出は、一九六四年(昭和三十九年)五月に、公明政治連盟として正式に決定。そして、同年十一月に公明党が結成されると、党として、次期衆院選挙に候補者を立てることを発表した。
 しかし、公明党の衆議院進出に、政界も、宗教界も脅威をいだき、党を誕生させた創価学会に、さまざまな圧力を加えてきた。
 脅迫とも思える強圧的な態度や、懐柔策をちらつかせながら、山本伸一に接触してくる、いわゆる″大物政治家″もいた。
 学会本部への脅しや嫌がらせの電話、手紙も、後を絶たなかった。
 その一方、公明党の結成前後から、衆議院の選挙制度を変えて、単純小選挙区制を採用しようとする自民党政府の動きが、本格化し始めていったのである。
 単純小選挙区制とは、選挙区を小さくし、一選挙区ごとに議員一人を選出するという制度である。
 当時の衆議院選挙区は、一選挙区で三人から五人の議員を選出する中選挙区制であったが、これを変えようというのである。
 単純小選挙区制は、当選者が一人であるため、多くの選挙区で一位になる可能性が高い、第一党、大政党にとっては有利このうえない制度である。
 しかし、二位以下の候補者に投じた票は、いっさい議席につながることなく、″死票″となってしまい、有権者の意思が反映されにくい制度といえる。
 選挙制度審議会では、単純小選挙区制以外にも、わずかに比例代表制を取り入れた併用案も検討していたが、実質は単純小選挙区制と、ほとんど変わらなかった。
 いずれにせよ、状況次第では一党支配を確立し、事実上、議会制民主主義を葬り去る選挙制度となりかねない。
 この動きに、敏感に反応したのは青年部であった。
 青年たちは、一党による権力の維持と、公明党の衆議院進出を阻むための党略であると見抜き、″小選挙区制″粉砕のデモを行いたいと申し出た。
 だが、山本伸一は、慎重であった。病苦や経済苦と闘いながら、健気に信心に取り組んでいる学会員に、このうえ、デモなどやらせたくなかった。
 また、学会が、選挙の支援活動以外で、政治にかかわる行動をすることは、できる限り避けたかったのである。
 ところが、青年たちは、何がなんでも、デモを行うという構えであった。
 いや、壮年も、さらに、女子部も、婦人部もやるというのだ。皆が義憤を感じていたのである。

1
1