Nichiren・Ikeda
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1 常勝(1)
第二次世界大戦中、ナチスと戦い抜いた、フランスの行動する女性哲学者シモーヌ・ベーユは言った。
「言葉は序の口にすぎない。行動こそ、人びとの 魂を形成するさらに強力な手段である」
まさに、行動こそが新しき波を起こす。行動こそが人を触発する。そして、行動こそが、民衆の勝利の歴史を織り成すのである。
一九六六年(昭和四十一年)三月、北・南米訪問を終えた山本伸一は、班長、班担当員など、第一線で活動に励むメンバーとの記念撮影、激励のために、疾風のごとく、日本各地を回り始めた。
四月だけでも、大阪、和歌山、静岡、香川、愛媛などを回り、五月三日には、東京・日大講堂で行われた本部総会に出席した。
この席上、彼は、学会が広宣流布の指標としてきた「七つの鐘」について再確認し、「第七の鐘」を目標に、幸福に満ちあふれながら、悠々と前進していくよう呼びかけたのである。
「七つの鐘」は、学会が創立以来、七年ごとに大きな節を刻んできたことから名づけられた、広布の歩みであり、未来展望である。
これは、戸田城聖が逝去した直後の、五八年(同三十三年)五月三日の本部総会で、後継の弟子として立ち上がった伸一が、新しき前進の指標として発表したものであった。
牧口常三郎の『創価教育学体系』が発刊され、創立の日となった、一九三〇年(同五年)の十一月十八日から、創価教育学会の発会式が行われた三七年(同十二年)秋までの七年間を「第一の鐘」とし、以後、七年ごとに、第二、第三……としてきたのである。
第三の七年に入る四四年(同十九年)十一月十八日には、初代会長の牧口が獄死している。
その七年後の五一年(同二十六年)には、戸田が第二代会長に就任。戦後の広宣流布の本格的な歩みが始まるのである。
さらに、七年を経た五八年(同三十三年)四月二日には、会員七十五万世帯の達成など、生涯の願業を成就した戸田が、世を去っている。
その悲しみのなかで、伸一によって、広布の新しき出発を告げる「第五の鐘」が、高らかに打ち鳴らされたのである。
そして、二年後の六〇年(同三十五年)五月三日、伸一は、第三代会長に就任すると、戸田の七回忌までの目標として、会員三百万世帯の達成、大客殿の建立寄進などを掲げて、怒濤の大前進を開始したのだ。
2 常勝(2)
学会は、早くも一九六二年(昭和三十七年)の十一月には、会員三百万世帯を達成し、さらに大客殿の完成の喜びのなかに、六四年(同三十九年)四月、戸田城聖の七回忌を迎えた。
それは、翌六五年(同四十年)から始まる「第六の鐘」の黎明となった。
六六年(同四十一年)の五月三日の、この本部総会で、山本伸一は、今や七二年(同四十七年)をめざして、「第六の鐘」が始まっていることを述べた。
そして、この間の目標としては、既に発表したように、創価文化会館、また、事実上の本門の戒壇となる正本堂の建設をめざしていることを確認した。
さらに、「七つの鐘」が鳴り終わる七九年(同五十四年)をめざして、広宣流布の大飛躍を期そうと訴えたのである。
次いで、「第七の鐘」が終了したあとの指標として、戸田の三十三回忌にあたる一九九〇年をめざし、広宣流布の総仕上げの時としていきたいと語り、こう訴えたのである。
「しかし、もしも、この広宣流布の構想通りにいかない場合は、それは、御仏智です。
その時には、広宣流布の成就は、現在の男子部、女子部、学生部、そして、最愛の若き弟子である、高等部、中等部、少年部の皆さんに託す以外にない。
どうか、使命深き皆さんは、戸田先生の三十三回忌を、また、西暦二〇〇〇年を目標に前進し、さらに、二十一世紀の新しい『七つの鐘』を、決然と打ち鳴らしていただきたいのであります!」
この本部総会には、高等部の代表も出席していた。
伸一は、祈るような思いで、そのメンバーに向かって訴えたのである。
講演を終えて、伸一は思った。
″二〇〇〇年には、今の高等部員のほとんどが五十代に入る。また、中等部、少年部も、大多数が四十代である。
あらゆる面で、最も力を発揮できる年代となる。
そのメンバーが、私の精神を受け継ぎ、本気になって立ち上がってくれるならば、広宣流布は、必ず、必ず、成就できる!
もし、その人たちが、いい加減であったり、真剣勝負のできない、ひ弱な格好だけのリーダーになってしまうならば、それは私に福運がないからだ。
しかし、戸田先生に仕えることができた私は、世界一の幸福者である。私に福運がないわけがない。
みんな、必ず、やってくれるだろう。立ち上がってくれるだろう。
あとは頼むぞ、鳳雛たちよ!″
3 常勝(3)
本部総会を終えた山本伸一は、この五月も、大分、熊本、福岡、山形、宮城、神奈川などへ、力の限り奔走し、六月には、大阪、奈良、岡山、三重、静岡に飛んだ。
七月の下旬から八月の上旬にかけては、夏季講習会の陣頭指揮をとり、その間に岩手を訪問している。
また、八月下旬には、ハワイの寺院の開院式のためにホノルル入りし、とんぼ返りで帰国すると、九月には二日に総本山に行き、三日は兵庫、四日は京都、さらに、九日には北海道の帯広、十日には札幌、十一日には函館での記念撮影に臨んだ。
こうした過密なスケジュールのなかで、伸一は常に未来のことを考え、そのための布石を打ち続けていたのである。
その一つが、御書の英語訳の推進であった。
一閻浮提、即ち全世界の広宣流布は、大聖人の御遺命であり、日興上人は「本朝の聖語も広宣の日は亦仮字を訳して梵震に通ず可し」と仰せである。
本朝の聖語、つまり大聖人の御書も、広宣流布の時にはまた、仮名交じり文を外国語に翻訳して、広く世界に伝えるべきであるとの御指南である。
伸一は、世界広布のために、御書を各国語に翻訳するにあたって、英語訳の大切さを痛感していた。
それは英語を話す人が多いだけでなく、御書の英訳から、ほかの外国語に重訳されていく可能性が高いからであった。
そこで伸一は、英語の教学誌である『セイキョウ・タイムズ』の編集スタッフと相談し、海外メンバーの夏季講習会用の研鑽御書に決まっていた「経王殿御返事」(1124㌻)を、英文で掲載することにしたのである。
この英訳が同誌に掲載されたのは、一九六六年(昭和四十一年)の七月一日号であった。
その後も翻訳作業は、御書講義などでよく研鑽される御抄を中心に進められていったが、担当したスタッフにとっては、苦悩の連続であった。
大聖人の教えを正確に翻訳し、伝えていくには、何よりも、御書の原文を、正しく解釈することが重要になる。
しかし、古文であり、仏法の精髄を説き明かした御書を、誤りなく理解し、解釈することは、決して容易なことではない。
教学部の関係者に聞いたり、山本会長の講義や仏教辞典などにあたりながら、まず解釈に幾晩も費やさなければならなかった。