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日蓮大聖人・池田大作

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第11巻 「開墾」 開墾

小説「新・人間革命」

前後
1  開墾(1)
 「人間がなしうる最も素晴らしいことは人に光を与える仕事である」
 これは、南米解放の父・シモン・ボリバルの言葉である。
 一九六六年(昭和四十一年)三月十五日、予定より四十分ほど遅れ、午前十一時に、ブラジルのサンパウロを発った山本伸一の一行は、空路、次の訪問地である、ペルーの首都リマをめざした。
 南米大陸を横断する、五時間ほどの空の旅である。
 リマは、インカ帝国を滅ぼしたスペイン人のフランシスコ・ピサロによって、一五三五年に建設され、以後、南アメリカの植民地支配の中心となってきた都市である。
 ジェット機がアンデス山脈の上空にさしかかると、眼下には、紺碧の湖が見えた。チチカカ湖である。
 そして、六千メートルを超える白雪の山々を見下ろしながらの飛行が続いた。越えても、越えても、波のように山がうねる。
 アンデスを過ぎると、海が広がり、薄茶色の砂漠のなかに、緑が映える都市が姿を見せた。
 その美しき街がリマであった。
 伸一は、タラップを下りて、初めてペルーの大地に立った。
 吸い込まれそうな青空に輝く、夏の太陽がまぶしかった。
 空港には、ペルー支部長の知名正義と、前日にリマ入りしていた、春木征一郎をはじめとする数人の日本の幹部らが出迎えていた。
 当初、リマでは、たくさんのメンバーが空港に集い、初めてペルーを訪問する山本会長を、盛大に歓迎しようと相談していた。
 ところが、ペルーでも、政府が学会に警戒の目を向けていることから、先発の幹部が、派手な出迎えは避けて、支部長の知名だけにするように、説得にあたったのである。
 メンバーは残念でならなかったが、山本会長を無事にペルーに迎えるためならと、同意したのであった。
 知名は四十代前半の温厚な人物である。
 空港で春木から、この出迎えに至る経過を聞いた伸一は、胸を痛めた。
 「皆さんには、残念な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありません。
 その分、ペルーの未来のために、幾重にも手を打っていきますから、安心してください」
 知名は、伸一の言葉に、謙虚さと、深い思いやりを感じ、心の底から感動を覚えた。
 信頼とは、人柄が発する共感の響きである。
2  開墾(2)
 ペルー支部長の知名正義は、一九二四年(大正十三年)に沖縄に生まれた。
 知名の両親は、正義が生まれて間もなくペルーに移住し、彼は沖縄に残った祖母の手で育てられた。ペルーでの生活が安定したら呼び寄せることになっていたのである。
 そもそも、ペルーへの日本人の集団移住が始まったのは、一八九九年(明治三十二年)のことであった。
 「佐倉丸」で七百九十人が契約労働者として渡ったこの移住は、一九〇八年(同四十一年)の「笠戸丸」による最初のブラジル移住より九年も早く、南米移住の先駆けであった。
 しかし、ペルーでの移住者の生活は、悲惨このうえなかった。
 待遇も劣悪であり、風土病に倒れる人も多かった。過酷な労働に耐えかね、逃亡する人もいた。
 知名の両親がペルーに渡ったころには、既に最初の移住から四半世紀が過ぎており、日系人はペルー社会に地歩を築き上げつつあったが、それでも、新しい移住者が生活の基盤を固めることは容易ではなかった。
 両親が、ようやく彼を呼び寄せることができるようになった時には、十七、八年が経過していた。
 一方、知名は十七歳で志願して海軍に入り、国内各地の基地を転々としていた。さらに、四五年(昭和二十年)の二月に、ペルーは日本に宣戦布告したことから、互いに連絡が取れずにいたのである。
 両親は、「沖縄は玉砕した」という話を耳にし、知名も死んだものと思い込んでいた。
 知名は、戦後は祖母が疎開していた宮崎で暮らし、やがて、建築関係の会社を興した。
 仕事は軌道に乗ったが、常に心の片隅にあるのは、ペルーに渡った両親のことであった。
 三十歳を過ぎたころ、彼は知人から信心の話を聞かされた。
 幼い時から、両親と離れて暮らさなければならなかった知名は、宿命という問題を真剣に考えていた。
 だから素直に、仏法を受け入れることができた。
 彼が入会を考え始めたころのことである。
 ――たまたま聴いたラジオ放送で、自分を捜している人がいることを知った。
 連絡を取ってみると、彼を捜していたのは、かつてペルーにいたという、父の友人であった。
 その人は、父から「息子は死んだようだが、日本のどこかで生きているかもしれない。ぜひ、捜してほしい」と、頼まれたというのである。
3  開墾(3)
 知名正義は、信心をしてみようと思い始めた時に、父母の消息がわかったことに、何か不思議なものを感じた。
 そして、一九五七年(昭和三十二年)の三月に入会したのである。
 彼は信心に励むうちに、御本尊の功力を確信できるようになった。
 すると、″父と母に会って、仏法を教えたい″との気持ちがつのっていった。
 また、自分を育ててくれた祖母も既に他界していたことから、今度は両親の面倒をみようという思いもあった。
 やがて知名は、ペルーへ渡ることを決意した。独力で軌道に乗せた会社も手放し、六一年(同三十六年)に日本を発ったのである。
 父親はリマでホテルやレストランを経営していた。
 息子と父母の三十数年ぶりの再会は、手を取り合っての涙の対面となった。
 ところが、その喜びも束の間、知名が、学会員であることを口にすると、両親の顔色が変わった。
 さらに、信心の話をし始めると、顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。
 両親は、他教団の熱心な信者であり、特に母親は、その教団の、ぺルーの中心的な幹部であった。
 父は、叫んだ。
 「息子は、死んだはずだ! お前が本当に私の子供だと名乗るなら、明白な証拠を見せろ!」
 母は、彼をにらみすえて言った。
 「創価学会だなんて、とんでもない。苦労して、やっと築いたわが家に、よくも不幸をもたらしに来てくれたね」
 それでも、なんとか頼み込み、父が営むレストランに住み込んで、働くようになった。
 実の親子であるにもかかわらず、全くの使用人扱いである。しかも、レストランは赤字続きで、経営は行き詰まっていた。
 知名は落胆した。こんなことなら、ペルーに来なければよかったと思った。
 しかし、″いや、ここで負けたら、両親に信心を教えることなどできない″と自分に言い聞かせ、懸命に働いた。
 二年後、彼の奮闘によって、傾きかけたレストランが見事に立ち直っていた。父親も、彼を高く評価し、こう言うのであった。
 「私が悪かった。本当にすまないことをした。お前のような息子をもって誇りに思う」
 そして、学会にも理解を示し、両親がともに入会したのである。
 生活のなかで示した実証ほど、雄弁に仏法の真実を語るものはない。

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