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日蓮大聖人・池田大作

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第10巻 「桂冠」 桂冠

小説「新・人間革命」

前後
1  桂冠(1)
 初代会長牧口常三郎の、また、第二代会長戸田城聖の理想に向かい、弟子・山本伸一の手によって、遂に光の矢は放たれた――。
 「創価大学設立審議会が発足」
 一九六五年(昭和四十年)十一月八日付の聖教新聞一面のトップに、大きな見出しが躍った。
 いよいよ、念願の創価大学の設立に向けて、歯車は回り始めたのだ。
 山本伸一は、十月三十一日、ヨーロッパ訪問の旅から帰ると、直ちに、創価大学の設立の打ち合わせを開始し、設立審議会を発足させたのである。
 審議会長には、伸一が就き、審議会の委員長には、理事長の十条潔が就任。委員会は、十条委員長以下、副理事長、学術部員、教育部員の三十六人で構成されることになった。
 今後、この審議会が、創価大学、並びに高校の設立準備にあたることになる。
 そして、十一月の二十六日には、第一回創価大学設立審議会が学会本部で開催された。
 席上、伸一は、設立の運びとして、「まず、六八年(同四十三年)ごろに高等学校を開校して、次いで、七〇年(同四十五年)以後に、大学の設立にとりかかりたい」と語った。
 さらに彼は、その実現のために、設立審議会のなかに、法律的な準備にあたる設置基準委員会と、大学、高校の設立の具体的な準備を進める大学専門委員会、高校専門委員会を設けることを提案し、全員の賛成で決定をみた。
 これによって、創価大学・高校の設立へ、スタートが切られたのである。
 伸一は、高鳴る胸の鼓動を感じた。
 彼は、心で叫んだ。
 ″戸田先生! いよいよ動き出しました。必ず、先生の理想とされた人間教育の最高学府をつくります″
 伸一は、師の戸田から大学設立の構想を聞かされた折のことが、一日として頭から離れなかった。
 ――それは、戸田が経営していた東光建設信用組合が、経営不振から営業停止となり、再起を期して設立した新会社の大東商工が、細々と回転し始めようとしていた、一九五〇年(同二十五年)の十一月十六日のことであった。
 戸田のもとにいた社員たちも、給料の遅配が続くと、一人、また、一人と、恨みごとを残して去っていった。伸一も、オーバーなしで冬を迎えねばならぬ、秋霜の季節であった。
 この日、伸一は、西神田の会社の近くにある、日本大学の学生食堂で、師の戸田と昼食をともにした。
2  桂冠(2)
 安価な学生食堂にしか行けぬほど、戸田城聖の財政は逼迫していた。
 彼にとっては、生きるか死ぬかの、戦後の最も厳しい″激浪の時代″である。
 しかし、戸田は泰然自若としていた。彼は、学生食堂へ向かう道々、山本伸一に、壮大な広宣流布の展望を語るのであった。
 食堂には、若々しい談笑の声が響いていた。
 戸田は、学生たちに視線を注ぎながら、微笑みを浮かべて言った。
 「伸一、大学をつくろうな。創価大学だ」
 伸一が黙って頷くと、戸田は、彼方を仰ぐように目を細めて、懐かしそうに語り始めた。
 「間もなく、牧口先生の七回忌だが、よく先生は、こう言われていた。
 『将来、私が研究している創価教育学の学校を必ずつくろう。私の代に創立できない時は、戸田君の代でつくるのだ。小学校から、大学まで、私の構想する創価教育の学校をつくりたいな』と……」
 ここまで語ると、戸田は険しい顔になった。
 「しかし、牧口先生は、牢獄のなかで生涯を閉じられた。さぞ、ご無念であったにちがいない。
 私は、構想の実現を託された弟子として、先生に代わって学校をつくろうと、心に誓ってきた。
 牧口先生の偉大な教育思想を、このまま埋もれさせるようなことがあっては、絶対にならない。
 そんなことになったら、人類の最高最大の精神遺産をなくしてしまうようなものだ。
 人類の未来のために、必ず、創価大学をつくらねばならない。
 しかし、私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。
 伸一、その時は頼むよ。世界第一の大学にしようじゃないか!」
 この時の戸田の言葉を、伸一は、決して、忘れることはなかったのである。
 だが、既に、その戸田も世を去っていた。
 創価教育の学校の設立は、牧口から戸田へ、戸田から伸一へと託され、今、すべては、彼の双肩にかかっていたのである。
 伸一は、先師・牧口の、そして、恩師・戸田の構想の実現に向かい、いよいよ第一歩を踏み出せたことが嬉しかった。
 広宣流布のために、師匠が描いた構想を現実のものとし、結実させてこそ、まことの弟子である。
 その不断の行動と勝利のなかにのみ、仏法の師弟の、尊き不二の大道がある。金色に輝く、共戦の光の道がある。
3  桂冠(3)
 この一九六五年(昭和四十年)の十一、十二月も、山本伸一は、記念撮影を中心に、各地のメンバーの激励に、全力を注いでいた。
 記念撮影といっても、伸一の場合は、決して、写真を撮るだけでは終わらなかった。
 記念撮影という出会いの場を、皆の幸福への大飛躍の舞台にしようと、全魂を込めて指導し、時間の許すかぎり、一人ひとりに声をかけ、励ましを送った。
 たとえば、十一月の四日には、関西本部新館で奈良本部の班長、班担当員と記念撮影をしたが、それは、さながら懇談会であり、個人指導の場でもあった。
 伸一は、壮年のメンバーに、年齢や健康状態などを尋ねていった。
 そして、体調が優れないという、一人の年配者の話に耳を傾け、真心を込めて激励するのであった。
 「寿量品に『更賜寿命』(更に寿命を賜う)とありますが、死ななければならない寿命さえも延ばしていけるのが仏法です。
 強盛に信心に励んでいくならば、ほかの病が克服できないわけがないではありませんか。
 どうか、たくさんお題目を唱え、うんと長生きをしてください」
 伸一は、この男性に、念珠を贈ると、皆に尋ねた。
 「ほかに、このなかに、体の悪い方はいらっしゃいますか」
 やや、ためらいがちに、数人のメンバーの手があがった。
 「その方は、少しお残りください。語り合いたいんです」
 次の撮影までの間、伸一は、そのメンバーを懸命に励まし、病気の原因から語り始めた。
 「大聖人は、病の原因について、天台大師の『摩訶止観』を引かれて、こう述べられています。
 『一には四大順ならざる故に病む・二には飲食節ならざる故に病む・三には坐禅調わざる故に病む・四には鬼便りを得る・五には魔の所為・六には業の起るが故に病む』」
 ――この意味を詳述すると、次のようになる。
 最初にある「四大順ならざる」の四大は、地・水・火・風をいう。東洋思想では、大自然も、また人間の身体を含めた宇宙の万物も、四大から構成されていると教えている。
 「四大順ならざる故に病む」とは、気候の不順等で大自然の調和が乱れると、人間の身体に重大な影響をもたらし、各種の病気が発生することをいう。

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