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日蓮大聖人・池田大作

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第10巻 「新航路」 新航路

小説「新・人間革命」

前後
1  新航路(1)
 日本列島は、秋晴れの空に包まれていた。
 創価の同志の信心を、諸天も称え、微笑んでいるかのような好天であった。
 一九六五年(昭和四十年)の、十月九日のことである。
 この日から十二日までの四日間、全国約一万六千の各地区拠点で、待望の正本堂の供養の受け付けが行われたのである。
 供養の受付時間は、午前九時から午後八時までであった。
 しかし、初日の九日には、″御供養一番乗り″をめざして、早くから受け付けの開始を待つメンバーの姿が、各会場に見られた。
 同志の顔は、歓喜に燃え輝いていた。
 ″正本堂は、やがて広宣流布された時には、御書に仰せの「本門寺の戒壇」となる。その正本堂の御供養に参加できることは、最高の福運であり、最大の誉れである″
 同志は、そう信じ、確信して、命を削る思いで、供養に取り組んできたのである。
 正本堂建立の計画が発表されたのは、前年の五月三日のことであった。
 この日、日大講堂で行われた、「本門の時代」への出発となる、第二十七回本部総会の席上、会長山本伸一から、次の七年間の目標の一つとして、総本山への正本堂の建立寄進が打ち出された。
 この正本堂は、大御本尊を御安置する本堂となるもので、戸田城聖が、大客殿に引き続いて建立するように、遺言していた建物であった。
 伸一は、その正本堂の基礎には、全世界の恒久平和を祈る意味から、世界各国の石を集めて埋めるとともに、五大州の代表的な名産をもって荘厳していきたいと訴えた。
 さらに、その供養の受付期間を、六五年(同四十年)十月十二日を中心に、四、五日間とすることを発表したのである。
 以来、同志は、この日をめざして、供養の準備に取り組んできた。
 一方、伸一は、世界各国の石の収集や、建設資材となる五大州の名産の視察のために奔走してきた。
 また、六五年の一月二十一日には、正本堂建設委員会が設置され、委員長、副委員長、委員が、日達法主から任命された。
 当初、委員会は、委員長を除いて、宗門二十人、学会三十人の計五十人(後に法華講から五人が加わる)で構成された。
 委員長は山本伸一であり、副委員長には、宗門から四人、学会から九人が任命されたのである。
2  新航路(2)
 第一回の正本堂建設委員会は、二月十六日に総本山大石寺の大講堂会議室で開催された。
 その席上、日達法主は、正本堂の意義について、明らかにしたのである。
 「さて正本堂についていちばん重大な問題は、どの御本尊を安置申し上げるかということでございます。(中略)
 大聖人より日興上人への二箇の相承に『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のための偉大なるご遺訓であります。
 これについて一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります。
 堂宇のなかのひとつに戒壇堂を設けるとか、あるいは大きな寺院のなかのひとつに戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。
 小乗や迹門の戒壇では、そうでありましたが、末法の戒律は題目の信仰が、すなわち戒を受持することであります。
 よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。
 したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります。
 それゆえ、百六箇抄には『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり』と大聖人のお言葉が、はっきりご相伝あそばされております。
 また同じ百六箇抄の付文に『日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり』と、こう明らかにされておるのでございます。
 (中略)したがって今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。
 ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります」
 つまり、大聖人御遺命の本門寺の戒壇は、特別な戒壇堂を建てるのではなく、大御本尊まします本堂が、そのまま戒壇となり、正本堂こそが、その戒壇の大御本尊が安置されるところであるというのである。
 ここに、日達法主によって、正本堂は、広宣流布の暁には戒壇となる建物であり、その建立は、実質的な戒壇の建立であることが、明らかにされたのである。
 この指南は、二十日付の聖教新聞に掲載された。
3  新航路(3)
 山本伸一は、前年の五月三日の本部総会で、正本堂の建立寄進を発表した時には、正本堂のあとに、戒壇堂の建立を考えていた。
 したがって、彼は、正本堂を建立すれば、「あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります」と語ったのである。
 しかし、広宣流布の暁には、正本堂がそのまま戒壇堂になるとの、日達法主の指南である。
 正本堂建設委員会では、この指南によって明らかにされた正本堂建立の意義を徹底し、供養への参加を呼びかけるために、三月二十六日付で、「正本堂建立御供養趣意書」を作成し、配布した。
 趣意書では、第一回正本堂建設委員会での日達法主の説法をあげ、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であることを明らかにし、次のように述べている。
 「正本堂建立の意義は、まことに甚深であり、その御供養に参加できる私たちの大福運は、なにものをもっても、たとえようがないと思うのであります。ここに僧俗一致して、この壮挙を達成したいと願うものであります。
 正本堂建立の位置は『大御本尊は客殿の奥深く安置する』との御相伝にもとづいて、大客殿の後方に建てられることになっております。
 近代建築の粋を集め、資材には五大陸の名産を用い、世界各国の石を集めて礎石とすること、前庭には『涌出泉水』の義にちなんで、大噴水も造られることになりました。
 まさに世紀の大建築となることでありましょう。
 さて、その御供養につきましては、本年十月十二日、戒壇の大御本尊建立の吉日を選んで、十月九日より四日間をもって行ないたいと存じます。
 総本山における大建築についての御供養は、これで最後の機会となるでありましょう。千載一遇とはまさにこのことであります。
 末法万年の外、未来までも人類救済の大御本尊様を御安置申し上げるこの正本堂建立の大事業に参加できることは、永遠の誇りであり、大福運であります。
 願わくは、おのおの信心の誠を尽くし、全員がこの栄ある大業に、参加されんことを望むしだいであります」
 趣意書を手にした同志の感激は、計り知れない大きなものがあった。
 私たちの手で、本門の戒壇となる正本堂を建立することができるのだ。頑張って、頑張り抜いて、最高の御供養をしよう――それが同志の決意であった。

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