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日蓮大聖人・池田大作

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第10巻 「言論城」 言論城

小説「新・人間革命」

前後
1  言論城(1)
 人間革命――そこに、いっさいの原点がある。
 すべての根本をなしているのは、人間であり、自己自身であるからだ。
 ゆえに、自分自身の生命の変革が、家庭を変え、地域を変え、社会を変える。時代を変え、歴史を変え、世界を変える。
 その人間革命をなしゆく仏法の力の大潮流が、渦巻き、怒涛となって大海を走り始めた。
 「勝利の年」と銘打たれた、一九六五年(昭和四十年)の新春は、会長山本伸一の小説『人間革命』の新聞連載で始まった。
 全国の会員は、この連載の第一回が掲載される、元日付の聖教新聞が、待ち遠しくて仕方なかった。
 山本会長が、師匠の戸田第二代会長の出獄後の歩みを描いた、初の小説の連載である。
 戸田先生の正義と実像と確信が、今、初めて、山本先生によって明らかにされる――そう思うと、同志の胸は躍った。
 連載の第一回は、敗戦間際の一九四五年(同二十年)七月三日、「やせ細った中年の男」の、出獄の場面から始まっている。
 「男は、浴衣の着ながしで、長身の体は飄々としていた。風が裾をはらった。瞬間、脛があらわれたが、それは肉がおち、かぼそい棒のように見える……」
 第一回では、その男が誰であるかは、記されていなかった。しかし、それが戸田城聖であることは、学会員には明らかであった。
 読者は、このやせ細った一人の男が、広宣流布に立ち上がり、七十五万世帯を超える人びとに正法を流布し、民衆の勝利の、偉大なる歴史を開いたことを思うと、強い感動を覚えた。
 戸田の出獄といっても、まだ、わずか二十年前のことである。
 しかし、学会の大発展から考えると、それは、まるで隔世の感があった。
 大発展した創価学会しか知らない、新しいメンバーは、先輩幹部から、草創期の話を聞いてはいても、あまり実感はなかった。
 だが、『人間革命』は、創価の大河の流れが、まさに、たった一人から始まっていることを痛感させた。
 そこに、筆者の山本伸一の意図もあった。
 彼は、師の戸田の決意と精神を、全同志が分かちもってほしかった。そのための執筆でもあった。
 安楽に慣れ、原点の精神を忘れれば、魂は滅びる。
 人類の幸福の宝城たる学会を永遠ならしめるには、戸田の敢闘を永遠に伝え抜かなくてはならないと、伸一は深く思っていた。
2  言論城(2)
 また、この新年、もう一つ山本伸一から、学会員への贈り物があった。
 それは、旬刊の雑誌『言論』の一月一日号から、「若き日の日記から」と題して、伸一の青春時代の日記が連載されたことであった。
 雑誌『言論』は、最初は言論部の機関誌として、一九六二年(昭和三十七年)十一月に、月刊でスタートした。
 そして、この六五年(同四十年)から旬刊となり、新たに、自由言論社から、一般の雑誌として発刊されることになったのである。
 伸一の日記が連載されるようになったのには、こんないきさつがあった。
 ――伸一は、よく青年たちに、青春時代から、ずっと日記を書きつづってきたことを語り、「青春の一日一日を、自分らしく戦い抜いたといえる、金文字の日記帳をつづろう」と励ましてきた。
 それを聞いた青年部の幹部から、「ぜひ、山本先生の青春時代の日記を、拝見させてください」との、強い要請が出されていた。
 しかし、日記など、もともと人に見せる性格のものではない。若い時代のものとはいえ、自分の日記を公表することには、伸一は、強い抵抗があった。
 彼は、こう言って、断り続けてきた。
 「自分の日記を公開するわけにはいかないよ。
 また、内容も主観的であるし、全般的に、意味がわからない個所も多いのではないかと思う。
 それに、ほかの人に迷惑がかかってしまう場合もあるからね」
 だが、青年部長の秋月英介が、再三にわたって、伸一の日記の公表を要請してきたのである。
 「雑誌『言論』が旬刊となりますので、そこに、ぜひ、先生の若き日の日記を掲載させてください。
 実現できれば、全青年部員にとって、これほどの喜びはありませんし、皆が元気になると思います。
 どうか、未来を託す青年のために、よろしくお願いいたします」
 青年部長にこう言われると、伸一は、拒み続けるわけにはいかなかった。
 青年部員と自分とは、兄弟のような仲であるというのが、彼の率直な気持ちであった。その青年たちに、飾らずに、ありのままの自分の過去の姿を知ってもらうことも、よいのではないかと彼は考えた。
 そして、連載は三十六回限りとし、また、ほかの人のプライバシーに触れるようなところは削るということで、やむなく了承したのである。
3  言論城(3)
 山本伸一の「若き日の日記から」は、一九四九年(昭和二十四年)の五月三十一日の日記から掲載が始まった。
 伸一、二十一歳の記録である。
 「五月三十一日(火)
 小雨
 人生には、あまりにも仮面者が多い。真実を尊しとしてゆかねばならぬ。特に青年は。一生、真実を追求しゆく人は、偉大なる人だ。
 戸田先生の会社に、お世話になって、早、半年。実に、波乱激流の月日であった。あらゆる苦悩に莞爾と精進しゆくのみ。生涯の師匠、否、永遠の師の下に、大曙光を目指し、信念を忘却せず前進せん。
 少年雑誌『冒険少年』七月号でき上がる。自分の処女作となる。純情なる少年を相手に、文化の先端を進む、編集を、自分の親友と念い、恋人の如く思うて、力の限り、向上発展をさせよう。
 『今日の使命を果たすべし』
 これ、将来に光りあらしめる所以なり……」
 伸一は、この年の一月から、戸田城聖の経営する出版社「日本正学館」に勤め、この五月に、少年雑誌『冒険少年』の編集長となった。そして、最初の雑誌を作り上げたのである。
 その仕事の傍ら、大世学院(現在の富士短期大学)の夜間部に籍を置く、苦学生でもあった。
 伸一の「若き日の日記から」の反響は、彼の予想以上に大きかった。
 学会の青年の多くは、高い学歴があるわけでもなければ、社会的な地位や名誉があるわけでもなかった。皆が庶民であり、無名の青年といってよい。
 日記を目にした青年たちは、山本会長もまた、自分たちと同じような境遇のなかで、働き学ぶ、貧しい一青年であったことを知り、強い親近感をいだいたようである。
 そして、広宣流布の崇高な使命を自覚し、あえて苦難に挑んできた伸一の生き方に、共感を覚え、未来への希望と勇気を見いだしていった。
 ある青年は、次のように感想を語っている。
 「この日記は、″反省″と″未来への決意″に貫かれています。誰よりも厳しい眼で、自分を見つめ、自分に挑戦していく――そこに広布の指導者に育つ要件があると感じました。
 また、師弟の道とは何かを学びました。私の生き方の規範にしたいと思っています」

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