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日蓮大聖人・池田大作

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第9巻 「衆望」 衆望

小説「新・人間革命」

前後
1  衆望(1)
 一九六四年(昭和三十九年)の秋十月――。
 日本国中が、第十八回オリンピック東京大会でわき返っていた。
 東京オリンピックは、十月十日に、学会本部のある信濃町に近い、国立競技場で開会式が行われ、十月の二十四日まで開催されていたのである。
 この第十八回オリンピックの開催地が、東京に決まったのは、五九年(同三十四年)であった。
 サンフランシスコ講和条約が発効して間もない五二年(同二十七年)に、東京がオリンピックの開催地に立候補して、七年後のことである。
 東京オリンピックは、過去に一度、開催が決定していながら実現できなかったという、暗い歴史がある。
 ――かつて、オリンピックを東京に招致する動きが始まったのは、まだ日中戦争前の、一九三〇年(同五年)のことであった。
 以来六年を経て、三六年(同十一年)七月、ベルリンでの第十一回オリンピックに先立って、同地で開かれたIOC(国際オリンピック委員会)の総会で、四〇年(同十五年)の第十二回オリンピックを、東京で開催することに決定したのである。
 この翌日の八月一日には、ベルリンで第十一回オリンピックが開幕となり、それをヒトラーが、ナチス・ドイツの国威宣揚に、最大限に利用したことは、よく知られている。
 ベルリン大会は、東京大会が決まった直後であり、次は日本での開催となることから、日本国民の関心は極めて高かった。
 ラジオ店の前には、黒山の人だかりができ、オリンピックの実況中継に、一心に聞き入る光景が、随所で見られた。
 そして、日本選手の活躍に熱狂し、メダルを獲得するたびに、街には歓声がこだました。
 なかでも、水泳の女子二百メートル平泳ぎで、前畑秀子が、ドイツのゲネンゲルを接戦の末に破って優勝した際の実況中継には、全国民が手に汗を握りながら耳をそばだてた。
 アナウンサーは、絶叫していた。
 「前畑! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ!」
 喚声がその声をかき消したあと、再び「勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った!」というアナウンサーの声が響いた時には、人びとは感涙にむせび、手を取り合って喜び合った。
 ところが、日本政府は、三八年(同十三年)七月十五日、東京オリンピックの中止を決定したのである。
2  衆望(2)
 オリンピックの東京大会が中止となった理由は、戦争の激化であった。
 前年の一九三七年(昭和十二年)七月七日に起こった盧溝橋事件を契機に、日中全面戦争に突入していったことから、政府は、″時局の重大性にかんがみ″、東京大会の中止を決めたのである。
 平和の祭典・オリンピックは、戦争によって、いともたやすく、つぶされてしまったのだ。
 その中止の決定から四半世紀余りが過ぎた、一九六四年(同三十九年)の十月十日、快晴の東京・国立競技場に七万四千人の観衆が集い、第十八回オリンピック東京大会の開会式が、盛大に行われたのである。
 その間、日本は敗戦という辛酸をなめ、そこから、目覚ましい復興を果たしたのである。
 アジアで初の開催となるこの大会には、オリンピック史上最多の九十四カ国、役員を含めて七千余人が参加していた。
 山本伸一は、その開会式の模様を、ヨーロッパ訪問中に、チェコスロバキア(当時)のプラハで、テレビで見たのである。
 この大会に、東西ドイツは、″統一ドイツ″として参加していた。東も、西もなく、一つの選手団としての入場であった。
 ″統一ドイツ″は、メルボルン大会、ローマ大会に続く試みであったが、この四年間のうちに、″ベルリンの壁″が建設されるなど、東西冷戦は厳しさを増していた。
 しかし、その壁を取り払い、同じドイツ人として参加したのである。
 観客は、平和を祈りながら、ドイツの選手に盛大な拍手を送った。
 さらに、この大会の特色として、アルジェリア、カメルーン、コートジボワールなど、アフリカの新興独立国の参加があった。
 民族衣装も鮮やかな、若々しいアフリカの選手団の入場に、スタンドからは、惜しみない拍手がわき起こった。
 その一方、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)とインドネシアが、選手の参加資格の問題から、直前になって引き揚げるという出来事もあったが、この日、東京オリンピックは、晴れやかに開幕したのである。
 競技は、翌十一日から、最終日の二十四日まで、十四日間にわたって熱戦が繰り広げられたが、日本選手の活躍も目覚ましかった。
 なかでも、大松博文監督の率いる、女子バレーボールチームは、相手チームの強烈なスパイクを、「回転レシーブ」で拾いに拾い、快進撃を続けたのである。
3  衆望(3)
 日本の女子バレーボールチームは、二十三日に行われた決勝でも、強豪のソ連をストレートで下し、全戦全勝で見事に金メダルを獲得。″東洋の魔女″として、世界に名を馳せたのである。
 試合開始の直後は、ソ連が先行したが、次第に落ち着きを取り戻した日本は、ほどなく逆転し、第一、第二セットを連取。
 第三セットは、ソ連も必死に食い下がり、接戦となったが、十五対十三で日本が勝ったのである。
 ヨーロッパ方面を歴訪して、十月十九日に帰国していた山本伸一も、この女子バレーボールの決勝戦の模様を、学会本部で女子部の幹部たちと一緒に、テレビで観戦した。
 得点が動くたび、歓声があがったり、嘆息が漏れたり、賑やかなテレビ観戦であった。
 試合が終わると、伸一は女子部の幹部に語った。
 「見事な勝利だったね。やはり、勝つことは嬉しいし、気持ちがいい。
 しかし、三対〇のストレート勝ちといっても、実力の差は紙一重でしょう。
 また、選手一人ひとりの力からいえば、体力的にも、技量的にも、ソ連チームの方が上かもしれない。
 それなのに、日本チームが圧勝したのはなぜか――ここが大事なポイントだ。
 もちろん、勝負の大前提として、大松監督のもとで徹底した訓練があったことはいうまでもない。
 そのうえで、今、試合を見ていて感じたのは、日本チームは、″絶対勝つ″という確信に燃えていたことだ。選手が皆、躍動しているし、しかも、チームワークがよい。
 ″どんな球でも、必ず拾うぞ″″決してあきらめないぞ″という、執念と攻撃精神にあふれていた。
 そして、勝利への強き一念で、皆が団結していた。
 回転レシーブで、床に落ちる寸前のボールも巧みに受け、別の選手が、それをトスでつなぐ。さらに、次の選手が、力いっぱい打ち込む。
 調子が落ちると、『頑張ろう!』と声がかかり、『はい!』という、打てば響くような皆の声が返る。
 スポーツという一次元ではあるが、実に見事です。
 あなたたちには、新しい時代を開くために、広布と人生の戦いに、勝ち続ける責任がある。
 その意味で、今の試合から学ぶべきことは多いよ」
 女子部の幹部たちは、真剣な顔で頷いていた。
 文豪・吉川英治に、「我以外皆我師」との有名な言葉があるが、伸一もまた、すべてのものから学びゆかんとする、強き向上心に満ちあふれていたのである。

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