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日蓮大聖人・池田大作

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第9巻 「光彩」 光彩

小説「新・人間革命」

前後
1  光彩(1)
 青年は、時代の宝である。先駆けの光である。
 一条の光が闇を破り、朝を告げるように、さっそうとした青年の活躍が、希望の朝を開いていく。
 わが「本門の時代」の先駆を切ったのも、青年たちであった。
 一九六四年(昭和三十九年)六月二日、東京・台東体育館で開かれた女子部幹部会の席上、女子部は、念願の部員百万を達成したことが発表されたのである。
 これは、前年七月の女子部幹部会で、会長山本伸一が目標として提案したものであった。
 当時、女子部の部員数は四十三万人であり、わずか一年たらずで、二倍を大きく上回る部員増加を成し遂げたのである。
 次いで、翌三日に、東京・豊島公会堂で開かれた学生部幹部会では、五月末で、部員が四万人を突破したことが報告された。
 これは、前年の七月に行われた学生部総会で、向こう一年間の目標として、決議したものであった。
 その時、部員は二万であり、学生部もまた、一年を待たずして、部員の倍増を果たしたことになる。
 さらに、学生部は、六月三十日に、東京・台東体育館で第七回学生部総会を開催したが、なんと、この日までに、部員五万を達成してしまったのであった。
 一カ月で、一万人の部員増加である。
 学生部員たちは、この総会の日が、ちょうど学生部の結成から七周年にあたることから、大躍進の偉大なる歴史をもって、総会を飾ろうと誓い合ってきたのである。
 戦う若人には、覇気がある。情熱がある。エネルギーがある。
 山本伸一は、学生たちの大奮闘に驚嘆した。新しい力が大きく育ちつつあることに、無量の喜びを感じていた。
 学生部総会の席上、伸一は、「本門の時代」を担いゆく、新しきリーダーたる学生部員に、万感の思いで語りかけていった。
 「よく戸田先生は、『後生畏る可し』と言われておりました。
 そこには、″弟子は、必ず師匠よりも偉くなってもらいたい。いや、偉くなるものである。偉大なる後継ぎになって、社会に、世界に、貢献していくべきである″との、先生のお心が託されておりました。
 今、私は、諸君を同志として信頼し、尊敬いたしております。
 どうか、大聖人の弟子として、民衆の幸福と世界の平和のために、雄々しく羽ばたいていっていただきたいのであります」
2  光彩(2)
 学生部の結成大会が行われた、七年前の六月三十日、山本伸一は、北海道の天地に立っていた。
 夕張の炭労で起こった、学会員への不当弾圧から、同志を守るために、彼は、敢然と大闘争を展開していたのである。
 信教の自由を守ることは、基本的人権を守ることである。
 思えば、北海道の開拓の陰には、国家権力による人権蹂躙の歴史があった。
 明治政府は、受刑者を北海道に送り、開墾、鉱山の採掘、道路開削などに従事させた。いわゆる「囚人労働」である。
 足に鉄鎖を付けられ、食料や飲料水の補給も不十分な原始林のなかでの過酷な労働であり、北見道路の開削では、二百人以上もの死者を出している。
 伸一は、その悲惨な歴史が刻まれた北海道に、人権の勝利の旗を打ち立てるために立ったのである。
 そのさなかの、学生部の結成であった。彼は、北海道の地から、万感の思いを込めて、祝電を打った。
 伸一は、その学生部が、かくも力をつけ、部員五万を達成したことが、嬉しくてならなかった。
 彼は、ここで、「本門の時代」の未来構想に言及していった。
 「現在、創価学会が母体となって、公明党結成の準備が進んでおりますが、まず、この公明党を軌道に乗せてまいりたい。
 そして、いよいよ、仮称『創価大学』、あるいは、仮称『富士文化大学』を設立してまいります。その大学で、世界の平和に寄与する大人材を、大指導者をつくり上げていきたい」
 場内は、大拍手と歓声に揺れた。
 「本門の時代」とは、社会への具体的な貢献の時代であるといえる。
 山本伸一は、その教育の場での一つのかたちを、まず、「創価大学」の設立として、学生部員に示したのである。
 翌七月一日、台東体育館で開かれた、七月度男子部幹部会では、今度は、男子部が、年間目標である部員百五十万を、いち早く達成したことが発表されたのである。
 皆が燃えていた。皆が輝いていた。
 伸一は、この七、八、九月は、各方面の指導に東奔西走し、十月二日には、東南アジア、中東、ヨーロッパ訪問の旅に出発した。
 同行は、副理事長の西宮文治、アメリカ本部長の正木永安らで、さらに、先発隊として、副理事長の秋月英介(青年部長)、白谷邦男、女子部の幹部の青山麗子、そして、伸一の妻の峯子が、前日の十月一日に、日本を発っていた。
3  光彩(3)
 山本伸一の妻の峯子が、海外訪問に同行することになったのは、本部の首脳たちの、強い要請によるものであった。
 毎回、海外を訪問するたびに、伸一の疲労は、計り知れないものがあった。また、慣れない現地の食事などのために、体調を崩すことも少なくなかった。
 さらに、海外では、伸一は各国の要人と交流する機会が増えつつあり、夫婦同伴の方がふさわしい場合もあった。
 そこで、本部では、伸一の健康や食生活にも精通している妻の峯子に、ぜひ同行してもらおうということになったのである。
 二日の午前九時過ぎに、羽田を出発した伸一の一行は、給油のため、香港に現地時間の午後一時過ぎ、到着した。
 香港の空港では、香港支部長の周志剛(チャウ・チーゴン)をはじめ、数人のメンバーが元気に迎えてくれた。
 「先生! お待ちしておりました」
 伸一が姿を現すと、最初に声をかけたのは、この五月に、東南アジア総支部の婦人部長になった、高井敏枝という女性であった。
 伸一は、微笑みを浮かべて言った。
 「高井さん、香港には慣れたかい」
 「はい」
 「ご主人は、今日は日本に帰っているんだったね」
 「はい、まだ、仕事が残っておりますもので、鹿児島に帰っています」
 敏枝の夫の平治は、東南アジア本部の本部長と東南アジア総支部長に就いていたが、日本での仕事が片付かず、香港と鹿児島を往復する生活が続いていたのである。
 平治は、一九一二年(明治四十五年)に広島に生まれ、戦前、朝鮮(当時)の高等農林学校に進学し、向こうで仕事に就いた。
 一方、敏枝は、朝鮮の生まれで、結婚した二人は、平治の仕事の関係で、中国の北京で新婚生活をスタートした。
 だが、平治は、ほどなく徴兵されてしまった。
 戦地に派遣された彼は、インドシナ半島の密林をさまよい、九死に一生を得て、ようやく、タイのバンコクにたどりついた。
 しかし、そこで待っていたものは、なんと、日本の敗戦のニュースであった。
 彼は、抑留されるが、やがて、日本に帰る日を迎えた。その前夜、タイの兵士が言った言葉が心に残っていた。
 「日本の皆さん、いつかまた、アジアに来て、戦争で示した力を、今度は平和のために使ってください」

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