Nichiren・Ikeda
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1 新時代(1)
生命は永遠である。
それゆえに、人間革命が必要である。
それは、何故か。
今世の善への修行が、因果の厳しき理法により、来世への、永遠の自己それ自体の生命となるからである。
一九六四年(昭和三十九年)四月一日――。
この日、総本山に落成した大客殿で、第二代会長戸田城聖の七回忌法要のお逮夜が、海外を含む代表五千人が参列し、盛大に営まれたのである。
戸田の七回忌法要に先立ち、午前十一時半からは、大客殿落成慶讃大法要が執り行われた。
参加者は、杉木立のなかにそびえ立つ、大客殿に息を飲んだ。春の日差しに映える、白亜の大殿堂は、雄大であり、荘厳であった。
建物の高さは三十・八七メートル、延べ床面積は一万四百五十五平方メートルの、鉄筋コンクリート五階建てである。各階には、蓮華の花弁をかたどった回廊が設けられていた。
また、屋根は、シェル構造という、二枚の貝を重ね合わせたような形をしており、その大屋根と柱の接点は、四百八十個の鋼球で支えられていた。
これは、地震などの揺れに備えた耐震設計で、安全性の確保に、この大客殿の一つの特徴があった。
一階は広場で、隣の奉安殿で御開扉を受ける人たちなどが、雨に打たれたりすることなく、待機できるように配慮されていた。
イタリア産の大理石の手すりが光る、正面の中央階段を上ると、鮮やかな赤と白と黒の陶板を張った、鳳凰の壁画が偉観を放っていた。高さ三メートル、幅十二メートルの大作である。
雄々しく翼を広げた鳳凰の姿は、世界の大空に飛翔する日蓮仏法を象徴しているかのようであった。
下絵は、後に日本芸術大賞を受賞し、現代日本画の巨匠といわれる加山又造であり、陶板は、陶芸界の名匠の誉れ高い加藤唐九郎が焼いたものであった。
加山は、この下絵のために、三十六枚のデッサンをつくったといわれる。
まさに、現代日本を代表する芸術家による、世界に誇る最高の壁画である。
二階には、下足箱、洗面所などが設けられているが、数千人の人が遅滞なく入退場でき、トイレも混雑することのないよう、工夫が施されていた。
願主の山本伸一の、人間を大切にするという考えが反映された設計であった。
三階がこの建物の中心となる大広間で、吹き抜けになった天井には、台湾産の桧の梁が、美しい幾何学模様をつくり出していた。
2 新時代(2)
この大広間は、畳の数は五百六十畳だが、内陣、外陣、広縁を合わせると、最高五千人まで収容することができる。
大広間正面の、御本尊を安置する厨子には、金色のアルミパネルが用いられ、扉は、当時としては画期的な、電動によって開閉するシステムを導入していた。
須弥壇の床には、スウェーデン産の黒御影石が使われ、その真下にあるコンクリートの礎石には、山本伸一が世界を回って集めた石など、四十六カ国の石が打ち込まれていた。
そして、大広間の天井には、ヨーロッパ製のシャンデリアが燦然と輝きを放っている。
また、広縁の天井に使われているのは、カナダの杉の柾目板である。
戸田城聖が、大客殿の建立を山本伸一に遺言したのは、大講堂を建立した直後のことであった。
戸田は、それ以前から、講堂の次は客殿であると語っていたが、この時、次の七年の目標として、世界平和の祈願のために、世界の名材を集めて、大客殿を建立するように、指示したのである。
その言葉通りに、伸一が世界各地を回り、入手した貴重な名材をもって、大客殿が荘厳されたのである。
設計は、総本山の奉安殿、大講堂を手がけ、寺院建築の近代化を開いた旗手として注目されていた、建築家であった。
彼は、この建物は、後世永遠に残る、大建築にしなければならないとの思いで、研究、工夫、実験を重ねてきたのである。
伸一が、戸田の七回忌をめざし、大客殿を建立することを発表したのは、一九六〇年(昭和三十五年)五月三日の、会長就任式の本部総会であった。
直ちに、大客殿建立委員会が発足。翌六一年(同三十六年)の七月二十一日から、四日間にわたって、大客殿建立の供養の受け付けが行われたのである。
この供養には、百四十万世帯の会員が参加し、三十二億円余の、真心の浄財が集められた。
そして、戸田の五回忌にあたる翌六二年(同三十七年)四月二日に、起工式が営まれ、工事が始まったのである。
基礎工事では、間口約六十メートル、奥行き約五十メートルにわたって、七メートルの深さまで掘り下げられ、コンクリートが打たれた。
建物がいつまでも崩れることのないよう、土台づくりには、ことのほか力が注がれたのである。
3 新時代(3)
大客殿の設計者も、施工者も、千年、二千年と残る、日本を代表する宗教建築をつくり上げようとの、決意に燃えていた。
また、建設の槌音とともに、同志の広宣流布への意気は高まっていった。
″戸田先生の七回忌を、大客殿の落成を、折伏で荘厳しよう!″
それが同志の合言葉のようになっていった。
そして、当初の目標の三百万世帯を優に突破し、四百万世帯を超える、広布の広がりの大歓喜のなかで、この日を迎えたのである。
落慶大法要には多数の来賓も参列し、政・財界人や各国の大使館関係者、海外の報道陣の姿も見られた。
四階部分の大広間の回廊には、整然と並んだ二千二百余本の支部旗、男女青年部の旗がライトに映え、晴れの式典を飾っていた。
第一部慶讃法要が開幕した。
読経に続いて、日達法主による慶讃文の奉読が始まった。
「……今正に広宣流布の時来れるか 創価学会の出現して此処に三十年 折伏未だ日浅きに信徒既に四百万世帯を越せり 誠に地涌千界の菩薩今世に久遠下種の仏法を興行すると云ふべし」
さらに慶讃文では、山本伸一が戸田城聖の大客殿寄進の遺志を継承し、世界を回り、各国の土石と名産を収集し、完成をみたことを称えたあと、こう述べられていた。
「これよりは修理を加へ勤行を致し 謗法の魔縁を退けて広宣流布を迎えんことを誓ふ」
歓喜に満ちた七百年来の慶事の場での、宗門人の誓いであった。
ところが、この落慶からわずか三十余年、総本山大石寺は「謗法の魔山」そのものとなった。
そして、法主日顕によって、この華麗な大客殿は、なんら修理もされぬまま、無残に取り壊されてしまうことになる。
日顕にとって日達法主は先師である。師匠である。それを、嫉妬に狂った彼は、師の業績の証となる建物を、ことごとく破壊していったのである。
それは、大客殿という建物にとどまらず、浄財を供養した百四十万世帯の会員の、赤誠の破壊であった。
いや、甚深なる日蓮仏法の大法理そのものを、日顕は破壊したといってよい。
法要では、会長山本伸一の御供養目録の奉納を受けて、日達法主は請書を伸一に手渡すと、こう告げた。
「日蓮正宗法華講総講頭に任ずる」
突然の発表であったが、それは前々から、日達法主の意向として、伸一に伝えられていたことであった。