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日蓮大聖人・池田大作

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第8巻 「激流」 激流

小説「新・人間革命」

前後
1  激流(1)
 日本も、世界も、激動していた。
 一九六三年(昭和三十八年)の十一月は、悲惨な事故や事件が相次いで起こった月でもあった。
 十一月九日には、午後三時十分ごろ、福岡県大牟田市の三井三池鉱業所三川鉱で、炭塵爆発事故が発生している。
 死者四百五十八人、負傷者は八百人を超え、命を取りとめた人も、その後、一酸化炭素中毒による後遺症で苦しむことになる。
 また、同じこの日の午後九時五十分ごろ、横浜市鶴見区の東海道本線で貨物列車が脱線。そこに、横須賀線の上り電車が衝突。この電車が下り電車に突っ込み、二重衝突を起こし、死者百六十一人を出す大惨事となった。いわゆる「鶴見事故」である。
 一方、世界に目を転じれば、十一月一日、南ベトナム(ベトナム共和国=当時)で、ズオン・バン・ミン将軍による軍事クーデターが起こり、二日には、ゴ・ジン・ジェム大統領らが殺害されている。
 さらに、十一月二十三日未明(日本時間)、衝撃的なニュースが世界を駆け巡った。
 ――二十三日の午前六時前、山本伸一は、一本の電話で目を覚ました。
 彼は、鹿児島会館の落成式に出席するため、前日、鹿児島入りし、宿舎のホテルにいたのである。
 「もしもし! 山本先生ですか……」
 副理事長の十条潔からである。声には緊迫した響きがあった。
 「十条さんか。ずいぶん早いね。どうしたんだい」
 「は、はい。大変な事件が起きました。
 ただいま、アメリカの正木本部長から国際電話がありまして、ケネディ大統領が暗殺されたそうです!」
 「本当か!」
 「はい。ケネディはテキサス州のダラスを訪問していたのですが、車で市内をパレード中、何者かに狙撃されたようです」
 「そうか……。
 残念だ、残念だな」
 伸一は、一瞬、絶句したが、すぐに言葉をついだ。
 「まず、アメリカに弔電を打つことにしよう。ホワイトハウスに一通。また、うちのメンバーにも一通送ろう。みんなも悲しんでいるだろうからね」
 すると、十条が言った。
 「はい。実は明日、事件の起こったダラスで、テキサス地区の総会が予定されており、そこに、正木君が出席することになっているそうです」
 「それはよかった。みんなを全力で激励するように伝えてくれないか。その総会は、追悼の意義を込めた集いとしよう」
2  激流(2)
 山本伸一は、さらに、こう付け加えた。
 「それから、正木君には、『ありがとう、ご苦労様』と伝えてほしい。
 情報は、スピードが勝負だ。こうした電光石火の素早い対応が大事なんだ。
 それでは、よろしく」
 伸一は電話を切ると、ケネディの冥福を祈って、心のなかで題目を唱えた。
 彼は思った。
 ″これでケネディ大統領に会う機会は、永遠になくなってしまったな……″
 伸一は、この年の二月、ワシントンで、ケネディ大統領と会見する予定になっていた。しかし、政権党のある政治家の″横槍″が入り、急きょ会見を取り止めたのである。
 もしも、ケネディと会っていれば、世界の平和や人類の未来のことなどについて、どんなに有意義な語らいができたかと思うと、残念で仕方なかった。
 彼は、人の運命の無常を感じた。
 ――ケネディが狙撃されたのは、伸一が十条潔からの電話を受けた、二時間半ほど前にあたる、現地時間の十一月二十二日午後零時半(日本時間二十三日午前三時半)のことであった。
 その日、ケネディは、遊説のためにテキサス州ダラスに入り、オープンカーで市内をパレードしていた。
 この南部の町は、保守的な土地柄で、一部に反ケネディの空気が強かった。彼を「反逆罪により逮捕の要あり」等と、罵倒したビラがまかれたり、彼を容共主義者だと難詰する新聞広告が出るほどであった。
 側近はダラス行きを憂慮したが、彼は、あえてこの町に、飛び込んでいったのである。
 パレードは順調に進んでいた。車にはジャクリーン大統領夫人と州知事夫妻が同乗。沿道は、多数の歓迎の市民で埋まっていた。
 車はエルム通りに入っていった。その時、銃声が響き、二発の弾丸が大統領の頭などに当たった。
 すぐ市内の病院に運ばれたが、間もなく死去したのである。
 享年四十六歳。あまりにも早い死であった。
 アメリカのラスク国務長官は、日本に向かう機中で暗殺を知り、「神よ、祖国を助けたまえ」と叫び、太平洋上で引き返した。
 ケネディの急死にともない、アメリカの新大統領には、副大統領のジョンソンが昇格した。
 また、暗殺の容疑者としてオズワルドという男が捕まったが、二日後、彼も殺害されてしまう。
 真相は、深い闇に覆われていた。
3  激流(3)
 ケネディの暗殺を知ったアメリカ社会の動揺は激しかった。
 多くの市民は息を飲み、声を失った。
 太陽が沈んだような暗い日となった。
 公民権運動の指導者キングは、ケネディ暗殺の報を聞いて、夫人に語った。
 「これは私にもまた起こるかもしれないことだ。話しておくがね、この社会はとても病んでいるよ」
 また、世界にも、大きな衝撃と悲しみを与えた。
 フランスのド・ゴール大統領は、「ケネディ大統領は兵士のように銃火のもとで自らの義務と祖国のために働いている最中に死んだ」と敬意のこもった弔辞を述べた。
 東西冷戦下の一方の雄である、ソ連のフルシチョフ首相も、直ちに弔電を送り、哀悼の意を表した。
 そこには、「卓越した政治家ケネディ大統領の悲劇的な死を、私は心から悲しむ。大統領の死は、平和と米ソ協力を歓迎するすべての人びとにとって大きな打撃である」とあった。
 世界が、ケネディ追悼の″半旗″を掲げた。
 ――ジョン・F・ケネディは、一九六〇年十一月、共和党のニクソン(当時・副大統領)を大接戦の末に破って、大統領選挙に当選。翌年一月、四十三歳の若さで、アメリカの第三十五代大統領に就任した。
 以来、大統領の職務にあること、わずか千日余り。しかし、この若き大統領は激動の世界のまっただなかで、よりよい世界の建設に向けて、懸命の舵取りをしたことは間違いない。
 当時、世界は東西冷戦の″雪どけ″ムードが、一転して″厳冬″に逆戻りしていた時期であった。
 大統領就任から半年余り。まず、ヨーロッパに緊張が走った。
 その後、長らく冷戦の象徴となった″ベルリンの壁″が、東側陣営の手で建設されたのである。
 六二年秋には、キューバのミサイル危機が起こり、人類は一触即発の核戦争の恐怖に震えた。
 だが、ケネディは、米ソの対話の道を探りつつ、冷静な判断力と勇気をもって、この危機を回避していったのであった。
 ″キューバ危機″を乗り越えた直後から、ケネディは、核実験を禁止する条約の締結に向けて、積極的に動き始めた。核戦争の愚かさを、彼は膚で感じ取ったのであろう。
 これには、ソ連のフルシチョフ首相も、前向きな姿勢を見せた。
 ケネディは、戦争の″危機″を、平和への″好機″としていったのである。

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